Vol.12『夏の日のひととき、定食屋への誘い』【明治葬儀社編】

Vol.12『夏の日のひととき、定食屋への誘い』
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――盆の町の熱気と静けさが入り混じる朝、谷中の空には蝉の声が高く響いていた。
明治葬儀社の事務所には白檀の香と冷房の音が静かに満ち、進行表の紙の隅が微かに風に揺れていた。
風野旅人はその進行表に目を落としつつ、微かな空腹を感じていた。

「旅人さん。」
美月のやわらかな声が、静けさの中にそっと届いた。

旅人は顔を上げた。美月が机越しに微笑んでいた。
「もうすぐお昼ですね……昼食、どうされますか?」

「あ……まだ、決めていません。」
言葉に少し戸惑いが混じる。

「この商店街に、たなか食堂という定食屋さんがあるんです。」
美月は遠くを思い出すように視線を向けた。
「古くからあって、素朴だけどとてもおいしいんです。……よければ、一緒に行きませんか?」

その優しい響きに、旅人の胸の奥に温かな灯りがともるような感覚があった。
「……いいんですか?」
「もちろんです。せっかくですし、谷中の味を知ってください。」

蝉の声が町を包み、赤い盆提灯が軒先に揺れていた。
商店街には迎え火の名残の匂いと線香の香りが漂い、人々の穏やかな声が行き交っていた。

美月と並んで歩く旅人は、その音や匂い、町の光に心を預けるような気持ちで歩いていた。
たなか食堂の暖簾が風に揺れ、年季の入った木の看板が昼の光に照らされていた。

「ここです。」
美月が微笑んで暖簾をくぐった。

暖簾をくぐると、焼き魚の香ばしい匂いと醤油の香りが旅人の胸に届いた。
木目が残る机、色褪せたメニュー札、壁に並ぶ短冊──「焼き魚定食 六百円」「生姜焼き定食 七百円」……
昼の光が窓から差し込み、静けさの中に小さな湯気や音が生きていた。

窓際では新聞を読む老人、カウンターでは作業服の男たちが短く会話を交わしていた。
奥の厨房では、田中店主が焼き台に向かい、黙々と魚をひっくり返していた。

「ここは……落ち着きますね。」
「そうでしょう?」

運ばれてきた「さばの塩焼き定食」。
白ごはんの湯気、さばの香ばしさ、味噌汁の香が旅人の胸を和ませた。

「谷中の空気、少しずつ馴染んできましたか?」
美月の問いに、旅人は箸を持つ手を止めた。
「……はい。昨日の通夜の帰り道、町が息をしているように感じました。」
「いい表現ですね。」
美月の瞳がやわらかく細められた。

美月は湯飲みに口をつけ、ほっとしたように目を細めた。
「……こうして、少し外に出る時間って、大事ですよね。」

旅人は箸を置き、うなずいた。
「はい。こんなふうに町の音が聞こえる場所で食事をするのは、久しぶりな気がします。」

「忙しさの中で、見失いそうになりますよね。」
美月の言葉は、どこか自分にも向けられているようだった。

旅人は少しだけ笑みを浮かべた。
「美月さんは……こうして昼にここへ来ること、よくあるんですか?」

「ええ。……学生の頃から、たまにここに寄ってました。お店の味も雰囲気も、変わらなくて。」
美月は懐かしむように店内を見渡した。
「この匂い、音、光……なんだか、時の流れが止まったみたいでしょう?」

旅人も同じように店の奥の焼き台の火を見つめた。
「……たしかに。落ち着きます。」

美月はふと、旅人の横顔に目をやった。
「旅人さん、これからもこうして、町の音に耳を澄ませていてくださいね。」

その言葉に、旅人は胸の奥がそっと熱くなるのを感じた。
「……はい。忘れないようにします。」

店内には蝉の声が遠くから重なり、昼の光が暖簾を透かして柔らかく揺れていた。
旅人は口にしたさばの旨味に、胸の奥まであたたかさが広がるのを感じた。


田中店主はふと二人に目をやり、小さくうなずいた。
(ああ、この町の空気に、また若い者がひとり馴染んでいくんだな……。)

カウンターの男たちはその様子に目を細め、湯飲みの茶をすすった老人は、
「いい日だ……」と独り言のように呟いた。

昼の光が、盆の町と二人の席を静かに包んでいた。

たなか食堂を後にし、二人は商店街をゆっくり歩いた。
昼下がりの太陽は相変わらず強かったが、さばの塩焼きの香りと白ごはんの温もりが、旅人の胸の奥に穏やかな余韻を残していた。

赤い盆提灯が風に揺れ、石畳の路地には線香の微かな香りが漂っていた。
商店街の軒先からは風鈴の音がひとつ、またひとつと涼しげに響いた。

「……さっきの味、胸の奥に残ってます。」
旅人の言葉に、美月はそっと笑みを浮かべた。
「谷中の味ですよ。きっと、これからも思い出すと思います。」

二人の足音が、町の音に溶けていった。
軒先の老婦人が庭に水をまき、その水が石畳を濡らして、陽射しを跳ね返していた。
蝉の声が、午後の空に高く遠く重なっていった。

「美月さん……今日はありがとうございます。」
「こちらこそ。……こういう時間、大事ですから。」

白檀の香がふと風に乗り、事務所の方角から届いた気がした。
谷中の町は、静かに、しかし確かに時を刻んでいた。


黒革の手帳 1995年8月12日

美月さんの声。
さばの塩焼きの香り、田中さんの背中。
谷中商店街の昼の音、暖簾の影。
小さなひとときの温かさが胸に残った。
小生、風野旅人。

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悠々自適なアラフィフライフを楽しむ"よこみ"との何気ない日々を綴るブログ。

こんにちは!私たちは、アラフィフの"Tabibito"と、パートナーの"よこみ"です。充実した人生を送りながら、穏やかな時間を共に過ごしています。

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