――盆の気配が町の空気を変えていく。
明治葬儀社の事務所には、祭壇の白布のように淡い光が差し込み、白檀の香と冷房の音が静かに満ちていた。
風野旅人は、今日という一日の始まりに、またひとつ新たな務めを胸に刻むことにな
神田の声は低く、しかしその響きは旅人の胸の奥に静かに届いた。
「今夜の通夜、美月と同行しろ。小坂家さんの式や。……お前にとっても、初めての夜になるな。」
旅人は深く頭を下げた。
「……はい。」
神田は一瞬、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「肩に力入れるな。遺族の顔をよく見て、空気を聞け。それでいい。」
夕暮れの光が町を包み始め、小坂家の門をくぐると、迎え火の跡がわずかに残る石畳に夏の終わりの風が吹き抜けた。
明治葬儀社の車が門前に止まり、宮内、杉原、村井、旅人、美月が静かに降り立った。
宮内は道具袋を肩に掛け、祭壇の位置、灯明の角度、控室の茶器の置き場まで、一つ一つを無言で確かめていた。
「風野。」
宮内の低く抑えた声が旅人を呼んだ。
「遺影の角度、ここで確認しろ。光が変わると表情が硬く見えることがある。」
蝋燭の灯りが遺影のガラスに微かな反射を映し出していた。
旅人はその角度を真剣に確かめ、頬を汗が伝った。
杉原は控室で茶器を盆に乗せ、膳を静かに運んだ。
「見られてないようで、遺族の視線はこっちを見てるの。乱さないで置くの。」
村井は香炉の灰を揃え、線香の向きを整え、祭壇の花に白菊をひとつ添えた。
その手つきは、余計な音を立てることなく、ただ祈るように静かだった。
美月は控室の戸口で遺族に頭を下げた。
「お暑い中、お疲れ様でございます。お茶をお持ちしております。」
その声の柔らかさが、場の緊張をそっと和らげた。
通夜の支度を終え、控室の灯りを最後に確認したとき、旅人はふと外の町の空気に目を向けた。
小坂家の門を出ると、夜の谷中の町がそこにあった。
石畳の路地に淡く提灯の明かりが揺れ、軒先の風鈴が静かな音を立てた。
盆の夜を迎えた町は、昼間の喧騒とはまるで別の顔を見せ、蝉の声も遠くかすれ、風の音だけが静かに耳に残った。
家々の窓からは仄かな光が漏れ、どの家もどこかしら、祈りの時間を過ごしているように見えた。
線香の匂いが風に乗り、旅人の胸の奥にそっと届いた。
(この町の夜の静けさも、誰かの想いで支えられている……。)
旅人はその空気を胸いっぱいに吸い込み、背筋を正した。
夜空には雲の切れ間に星がひとつだけ見えていた。
その小さな光が、まるで通夜の支度を終えた自分たちの仕事をそっと見守ってくれているように思えた。
(誰も気づかないところで、誰かの心が支えられていく。……今、その中に自分がいる。)
旅人は香炉の香、蝋燭の灯り、茶器の白磁の光沢を胸に焼き付け、心の奥に小さな決意を宿した。
小坂家の門を後にし、旅人と美月は夜の谷中の路地を歩いていた。
提灯の明かりが石畳に揺れ、風鈴の音が涼やかに耳に届く。
線香の香が風に乗り、二人の間の沈黙をやさしく包んでいた。
「……お疲れさまでした。」
美月が静かに口を開いた。
「はい……ありがとうございます。」
旅人の声はまだ微かに緊張が残っていたが、どこか確かなものがあった。
「遺影の角度、きちんと見ていましたね。」
「……宮内さんの言葉で、気づかされました。光の反射ひとつで、表情が変わるんだって……。」
美月は歩みを少し緩め、提灯の光に照らされた旅人の横顔を見つめた。
「旅人さん、初めてとは思えないくらい、場をよく見ていましたよ。」
その言葉に、旅人は心の奥で少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「……まだ何もできていない気がして……。でも、ありがとうございます。」
少し先で待っていた神田が、二人を振り返った。
「おう、ようやったな。」
その声は短く、けれど旅人の胸にあたたかく響いた。
「神田さん……ありがとうございます。」
神田は夜空を見上げ、口の端をわずかに上げた。
「この町の夜の声、ちゃんと聞けたやろ。忘れんでええ。」
「……はい。」
旅人は胸の奥に、夜の風と線香の香を深く刻んだ。
路地の先、盆提灯の光がそっと二人の帰り道を照らしていた。
黒革の手帳 1995年8月11日
神田さんの「空気を聞け」という言葉。
宮内さんの遺影の角度を気にする目。
杉原さんの茶器を置く指、村井さんの香炉に向ける静かな背中。
美月さんの声が場を和らげたこと。
小坂家の門をくぐったあの風の感触。
小生、風野旅人。
