その週の終わり、夕方の事務所に静けさが戻っていた。
旅人がコピー機の前で紙詰まりと格闘していると、背後から田代がぽつりと声をかけた。
「旅人さん……この前のこと、ありがとうございました」
「うん? ああ、骨壺のことか。ええ感じやったで。ちゃんと“届けてる”感じやった」
「……あの、実は……その、次の日、美月さんにも言われました」
旅人は、少し目を細めた。
「なんて?」
「……“うまくいった?”って聞かれて、うまく言えなかったんですけど……
“考えられへんくらい集中できたんやったら、それで十分や”って……」
旅人は思わず笑った。
「あの人、よう言うてる気するわ。よう見てるし、よう黙ってるしな」
田代も、ちょっとだけ笑った。
「あと、こうも言ってました。“人の最後の顔より、送った人の顔の方が残るんかもな”って」
旅人はしばらく黙り、コピー機の横に寄りかかるようにして、窓の外を見た。
「……ええ言葉やな。それ、きっと自分がよう見てるからやろな。
ほんまに、大事にしてるんやと思うわ、送る人の表情」
田代は静かにうなずいた。
「……美月さんって、そういうの、ちゃんと感じてるんですね。言わんでも」
旅人はふっと肩をすくめた。
「うん。でも、そういう人って、たぶん、自分のこともずっと見られてるで。気ぃつけや」
「……それは……ちょっと、緊張しますね」
二人のあいだに、ふっと笑いがこぼれた。
空はすでに薄曇りの夕色で、窓に射す光がじんわりと弱くなっていた。
その夜、旅人は黒革の手帳にこう記した。
1995年11月24日。事務所にて、田代との会話。
小生、コピー用紙と詰まった紙を取り出しながら、彼の口から聞いた。「美月さんに言われました。“うまくいった?”って。
ぼく、“わかりません”って答えたけど……
“考えられへんくらい集中できたんなら、それで十分や”って」小生、思わず笑う。
美月らしい。声は穏やかでも、芯を突く。さらに田代はこう言った。
「“人の最後の顔より、送った人の顔の方が、心に残るんかもしれへん”って。
……僕、それ、たぶん忘れません」小生、しばらく黙って外を見た。
まるでその言葉を、自分が言われたかのように胸に残った。——思い返せば、父を送ったとき。
母の顔より、受付で立ち尽くしていた兄の背中をいまも思い出す。“送った人の顔”。
それを見て、覚えて、忘れないようにすること。
それが、葬儀の仕事の“奥の方”にある役割かもしれぬ。田代の記憶が、美月の言葉でかたちを持ったこと。
それが小生には、何よりの灯りだった。
風野旅人の回想|冬の斎場にて
忘れようと思ったことは、一度もない。
けれど、それはいつも「忘れていたふりをしていた」だけだった。
あの日、斎場の空気はひどく冷たかった。
東京の冬は乾いていて、空も人も、どこか“手が届かないもの”のように感じられた。
三歳の女の子が亡くなった葬儀だった。
両親は別居していて、母親はどうしても現れなかった。
喪主は若い父親ひとり。痩せぎすで、作業服の裾は乾ききらない泥に濡れていた。
控え室で挨拶の言葉を尋ねたとき、その男は、何も言わずに首を振った。
「何も……言うことなんか、ないです」
そうぽつりと零した声だけが、斎場の白い壁に、やけにくっきりと響いた。
出棺のとき、小さな棺を運ぶのを手伝った。
父親はその横にずっと並んで立っていたが、顔を動かすことも、目を閉じることもなかった。
まるで、“いま目を離したら、この子がどこかへ行ってしまう”とでも思っているかのように。
その目は、燃え尽きたあともまだ明るさを持っている、奇妙な光を帯びていた。
泣きはしなかった。
けれど、誰よりも“別れ”を身体で抱え込んでいたように見えた。
あの背中を、いまでも思い出す。
無音のようでいて、すべてを語っている背中。
——自分がなりたかった姿。
誰かの最後に、黙ってそこに立てる人間。
いま、自分はほんの少しでも、そこに近づけているのだろうか。
そんな問いが、冬の午後の風とともに、また胸の奥に差し込んでくる。
黒革の手帳・深層記憶の追記
……“送った人の顔”が心に残る。
田代がそう言い、美月がそう感じ、小生もまた、そう思った。一件、思い出したことがある。
あれは、まだ明治葬儀社に入って数ヶ月の頃。
小生が離婚届を出した日の数日後。
三歳の女の子が亡くなった葬儀で、若い父親が喪主を務めていた。冷たい空気の中で、小さな棺の前に立ち尽くしていたその男の顔。
泣いていたわけでも、怒っていたわけでもない。
ただ、“自分の半分が消えてしまった”ような目をしていた。そのとき、ふと思った。
小生には、ああいう“誰かを守りきった顔”をしたことがあるだろうか、と。家族を守ることもできず、ひとを送ることも怖がっていた小生にとって、
あの男の無言の背中は、どこか“答え合わせ”のように感じられた。だからかもしれぬ。
いま誰かを見送るたび、小生はあの父親の顔を思い出す。“見送る”とは、別れの作業ではなく、
“どこまで一緒にいられたか”を確かめる時間なのかもしれぬ。それを、自分はようやく、他人の背中を通じて学んでいる。
