事務所に届いた1通の“差出人不明のお礼状”。添えられていた香典袋には、金額も名前も書かれていない。旅人と茉莉は、それが誰からのものかをたどる中で、静かに“見送られた記憶”に触れていく。
― ある家族の言葉にならない感謝 ―
冬の風は、音を持たない。吹きつけるでもなく、肌をなでるでもなく、ただ空気を静かに変える。風野旅人はその気配のなかで、ふと、ひとつの出来事を思い出していた。
それは、先週の葬儀が終わった翌日の朝。事務所に出勤すると、旅人の机の上に封筒が一通、置かれていた。宛名も差出人もなかった。ただ、封の裏に、小さく「お世話になりました」とだけ書かれていた。
開けてみると、中には香典袋と、短い便箋が一枚。
「父の葬儀を支えてくださり、ありがとうございました。あの場で泣くことはできなかったけれど、葬儀が終わってから、家族でお茶を淹れて、皆であなたのことを話しました。……“こういう方がいてくれてよかったね”と、母がぽつりと言いました」
旅人は、香典の額にも、言葉の端々にも、感情を押しつけない静けさを感じた。
何も語らないことが、いちばん深い“ありがとう”になることがある。そんなふうに思えた。
美月にその話をすると、彼女は少しだけ目を細めた。
「名前のない手紙って、残るよな。渡す相手より、自分のために書いてる気がするし」
旅人は頷いた。
言葉にしない感謝。形にならない祈り。 そのどちらも、この仕事の中で、確かに“生きている”のだと思う。
その晩、旅人は黒革の手帳を開いた。
1995年12月2日。事務所にて。 香典袋と、名前のない便箋。 感謝は時に、言葉よりも静かで、手紙よりも重い。 誰が書いたか分からなくても、伝わる想いがある。 美月の言葉。「自分のために書く手紙もある」。 ——それは、誰かの記憶に、ゆっくりと灯をともす。
その日の夜、旅人は机の引き出しから古い白封筒を一枚取り出した。数年前、どうしても渡せなかった手紙が、そこにしまわれたままだった。
彼はそれをそっと封から出し、読み返すことなく、再び静かにしまった。
いつか渡す日が来るのか、それとも、このまま誰の手にも渡らないまま残るのか。
けれどそれでも、書いた時間が、彼自身の心を少しだけ、救っていた気がした。
