若手スタッフ・田代蓮と現場を共にすることになった旅人。緊張でぎこちない彼に「何を受け渡せるか」を模索する旅人は、自分が初めて現場に出た頃の手の震えを思い出す――。
― 若手に託すこと、託されること ―
その朝、旅人が事務所に入ると、いつもより早く到着していた田代蓮がスーツの袖を直していた。
細身の体に新品の制服はまだ馴染んでおらず、どこか借り物のように見えた。
「旅人さん……今日、自分、骨壺……持ちます」
その目には、不安と、それ以上の覚悟が同居していた。
聞けば、入社から三ヶ月。初めて「喪主の正面に立つ日」だった。
出棺式の現場は、荒川沿いの古い平屋だった。
障子の紙が日に焼けて黄ばんでいる。
葬儀に集まったのは、息子夫婦と孫、近所の婦人会の数人。
静かな、あたたかい時間のなかに、湿度のような感情が漂っていた。
白木の棺の横に、小ぶりな骨壺が置かれる。
遺影には、目尻に深い皺を刻んだ笑顔の老女。
出棺の準備中、旅人は骨壺の上に載せる白布を取り出した。
それは、事務所の準備室で美月が折り目を整えていたものだった。
何も言わずに渡されたその布は、まるで“心をかけた無言の言葉”のようだった。
(きっちりしすぎず、けれど乱れのない角。あの人らしい手やな……)
旅人は、田代に白布をそっと渡した。
「これ、美月さんが整えてくれた分や。……丁寧に扱えば、気持ちは伝わる」
「……持ちます」
式が終わり、出棺直前。
田代は旅人を見て、深くうなずくと、両手を前に差し出した。
その指先はかすかに震えていた。
だがそれ以上に、“掴もう”とする意志の力が強かった。
旅人は、壺の縁に手を添えたあと、言った。
「緊張はええことや。震える手は、誰かを大切に持とうとしてる証やで」
田代は、何も返さず、目を閉じてから静かに骨壺を抱いた。
その瞬間、旅人の胸に、過去の記憶が蘇る。
——自分もかつて、誰にも見せたくなかったほど震えた。
葬儀という“他人の悲しみ”の中に、立っていいのか迷ったまま、
それでも「預かります」と声を出した、あの冬の日。
霊柩車の扉が閉まるまでのあいだ、田代は一言も発さなかった。
でも、壺を抱いた両腕の角度は、まるで壺の中に“重みだけでない何か”を抱えているようだった。
霊柩車のドアが閉まり、搬送スタッフが礼を交わして戻っていく。
その奥、控え室のカーテンの隙間から三好佳乃が少しだけ顔をのぞかせていた。
大きく手を振るでもなく、声をかけるでもなく、
ただ、うなずいていた。
田代がそれに気づいたかどうかは、わからない。
けれど、その視線は、たしかに“見守っていた人のまなざし”だった。
その帰り道、田代がぽつりと話しはじめた。
「……自分の父親が亡くなったの、二年前なんです」
「……そのとき、僕……何もできなかったんです。ただ見てるだけで」
「だから、この仕事、選んだんです。何か、できた気がしたかったんです」
旅人は立ち止まって、振り返った。
「今日の君の“持ち方”、よかったと思うよ。
あれは“何かを渡された人”の持ち方やった」
田代は、その言葉に目を伏せて、深く一礼した。
どこか、ようやく“帰ってこられた人”のような、静かな顔をしていた。
ー事務所の夜、美月との会話ー
その日の業務を終え、旅人が最後の報告書をパソコンに打ち込んでいると、
隣の席に座っていた美月がふと、声を落とした。
「田代くん、どやった?」
旅人は手を止めて、画面の端を見つめたまま答えた。
「ようやってたよ。……めっちゃ緊張してたけどな。震えとった」
美月は少し笑ったあと、封筒の角を撫でながらぽつりと言った。
「背広のボタン、朝、自分で縫い直してたんよ。ほどけかけててな。
“このままじゃ、持ったときずれそうです”って言うから。えらい律儀やなぁ思て」
「……あいつ、ちゃんと持ってたよ。
あんな震える手でも、“預かります”って気持ちが伝わる持ち方してた」
美月は少しだけ、まぶたを閉じた。
「ほんなら、もう大丈夫やな。次からは自分で立てるやろ」
旅人は、なぜかその言葉に、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
——“大丈夫”。
その言葉を、美月は決して本人には言わなかった。
だからこそ、その言葉には、静かな信頼が宿っていた。
その夜、旅人は黒革の手帳にこう記した。
1995年11月20日。若き田代蓮、初めての骨壺。
小生、見守る立場にありながら、あの日の自分を重ねていた。両手の震えは、弱さではなく“手放したくないもの”への祈りの証だった。
若い彼の指先は、たしかに亡き人を運んでいたが、それ以上に“自分の過去”を抱きしめていたように見えた。——思えば、小生もまた、“できなかったこと”からこの仕事を始めた。
あのとき父にかけられなかった言葉。
あのとき母の手を握れなかったこと。田代の背中を見ながら、ふと胸の奥に鈍い光が差した。
誰かの“最初の一歩”を見届けることは、小生にとって、
“言えなかった言葉を、自分の代わりに運んでもらうこと”なのかもしれぬ。見守ることは、育てることではない。
見届けることは、預けることに似ている。今日、小生は祈りを“渡した”。
そして、たしかに“受け取られた”。……気づけば、小生のまわりには、“言葉で支える人”たちがいる。
美月が整えた布の折り目。佳乃の沈黙の頷き。
言葉より先に、そういう手つきが“祈りの輪郭”を教えてくれる。
出棺式の翌朝、準備室にて

翌朝、準備室の隅でアイロンをかけていた美月のもとに、田代蓮がそっと近づいた。
「……あの、昨日、ありがとうございました」
美月は少し手を止め、蒸気の音にまぎれるような小さな声で返した。
「何が?」
「白布、整えてくださったやつ……。すごく……助かりました」
「旅人さんが言うてたん?」
田代は少しだけうなずいた。美月はアイロンを止めて、田代をちらと見た。
「……うまくいった?」
「……わかりません。でも……持ってるあいだ、何も考えられなかったです」
美月はそれを聞いて、少しだけ笑った。
「それ、“うまくいった”ってことやと思うで」
「……ほんまに、そうですか?」
「緊張しながらも集中できたんなら、それだけで十分や。
そんなん、最初はみんなできへんもん。……うちも、ぜんぜんやったし」
田代は少し目を見開いた。
いつも落ち着いている美月の「ぜんぜんできなかった」という言葉が、どこか信じられなかった。
「美月さんが、ですか?」
「うん。……よう震えたよ、ほんまに。
でもな、不思議と“忘れられへん顔”だけ、いまもはっきり残ってる」
その言葉に、田代はしばらく黙ったまま、ゆっくりとうなずいた。
「……僕も、忘れないと思います。あの人のご家族の顔。
なんでか、すごく静かで、あったかくて」
美月は、軽くアイロンを畳み、こう言った。
「せやな。人の“最後の顔”より、“送った人の顔”の方が、心に残るんかもな」
二人のあいだに、アイロン台の湯気だけがゆっくりと立ちのぼっていた。
