――静かな朝の緊張感の中、初めて向けられるまなざしがある。
その視線の奥に、どんな時間を背負ってきた人かを旅人は感じ取ろうとしていた。
葬儀社の空気は、またひとつ新しい声を重ね、確かに変わり始めていた。
朝の事務所の空気と旅人の心
1995年8月10日 午前10時。
東京の空は朝から白く霞み、熱を含んでいた。
蝉の声が高く響き、商店街の盆支度の掛け声が時折事務所の中にも微かに届く。
明治葬儀社の事務所は、冷房の低い音と白檀の香に包まれ、静かに時を刻んでいた。
風野旅人は机に向かい、昨日までの記憶を胸に、心の中で呼吸を整えていた。
(今日も、この空気の中で、自分の立ち方を探さなくては……。)
引き戸が開く音に、旅人はそっと顔を上げた。
そこに立っていたのは、落ち着いた色のスーツを着た男だった。
髪はきちんと撫でつけられ、静かな瞳が旅人をまっすぐ見ていた。
その視線には、決して押しつけがましくはないが、長い時間この仕事に向き合ってきた者だけが持つ重みがあった。
「君が、風野くんだな。」
その声は低く、柔らかく、どこか包み込む響きを持っていた。
「はい。風野旅人です。初めまして。」
旅人は立ち上がり、深く頭を下げた。
野瀬は一歩前に出ると、旅人の目を見て静かに言った。
「ここではな、まず耳を澄ますことが大事だ。葬儀の場で一番大切なのは、言葉を尽くすことよりも、相手の声を聞くことだ。」
その言葉に、旅人の胸の奥がふと熱くなった。
(耳を澄ます……この人もまた、見えないところで誰かを支えてきたんだ……。)
野瀬は軽く頷くと、机の端に手を置き、柔らかく言葉をつないだ。
「ここに来たばかりの頃は、みんな肩に力が入る。……でも、大事なのは、力を抜いたところで初めて見えるものだ。安心して、そういう目で見ていけばいい。」
そのやり取りを、美月は進行表を胸に持ちながら静かに見守っていた。
(野瀬さん……あの優しさの奥に、どれだけの現場を重ねてきたんだろう。)
美月の目に、旅人の少しだけほぐれた表情が映った。
神田は帳簿を閉じ、にやりと笑った。
「野瀬さんの声聞いたら、誰でも少しは肩の力が抜けるわな。」
「神田さん、そういうあなたも昔はピリピリしてたじゃないですか。」
美月の言葉に、事務所に小さな笑い声が広がった。
野瀬はそれを静かに見守り、微かに口元を緩めた。
「笑えるうちは、まだ大丈夫だ。……一緒にやっていこう、風野くん。」
「はい……よろしくお願いします。」
旅人の声には、ほんのわずかだが、確かな自信が宿り始めていた。
お待たせしました。
以下に、野瀬忠義と風野旅人の会話後、控室での作業場面を小説本文形式でお届けします。
空気の緊張と温かさ、細やかな作業の様子、旅人の内面の動きまでを丁寧に描いています。
会話の余韻を胸に、風野旅人は野瀬の後に続いて控室へ向かった。
控室の引き戸を開けると、白檀の香がより強く感じられ、畳の上に差し込む光が淡く揺れていた。
祭壇の準備はほぼ整っていたが、野瀬は無言で細部を見渡した。
湯飲みの位置、香炉の灰の整い方、花の角度、写真立てのガラスに映る光。
そのひとつひとつを、わずかに手を添え、微調整していく。
「風野くん、ここ頼む。」
野瀬が静かに指さしたのは、控室の茶菓の膳だった。
「茶器の向き、箸の位置……ほんの少しのことで、気持ちの落ち着きが変わる。気づかれなくていい仕事だ。でも、そこに心を置けるかどうかだ。」
旅人はうなずき、膳に向かった。
湯飲みの縁にうっすら残る水滴を布でそっとぬぐい、箸を正しい向きに揃えた。
茶菓の小皿の縁も指先で直し、全体のバランスを目で確認する。
外からは蝉の声と盆支度の声が聞こえ、冷房の音と白檀の香が控室を静かに包んでいた。
(誰かの心をそっと支える。……今、自分がしているのは、そういうことなんだ。)
野瀬は控室全体を一度見渡し、静かに頷いた。
「……いい。こういうところで、送りの式は決まる。忘れんことだ。」
旅人はその背中を見つめ、またひとつ、この場所での自分の足場を感じた。
黒革の手帳 1995年8月10日
野瀬さんの「耳を澄ますことが大切」という言葉。
静かな声の奥に、どれだけの時を葬儀の現場で重ねたのかが響いていた。
事務所の白檀の香、冷房の音、商店街の盆支度の声。
この空気の中で、少しずつ足元を固めていきたい。
小生、風野旅人。
