――葬儀の現場は、目立たない誰かの手によって支えられている。
その背中を追い、風野旅人は新しい一日を歩き始めた。
何気ない仕事の中にある「祈り」の形を、この日初めて、自分の目で見つめることになる。
1995年8月10日 午前7時半。
東京の空は白く霞み、すでに熱を含んでいた。
蝉の声が遠く高く響き、商店街では盆支度に追われる人々の声が重なっていた。
旅人は社屋の前で額の汗を拭い、白い壁を見上げた。
(今日も、ここから始まる……。)
静かに引き戸を開け、冷房と白檀の香に包まれるその空気を胸に吸い込んだ。
大式場では宮内がすでに動いていた。白布を張った祭壇の前で、花の向きを指でわずかに整え、蝋燭の芯を確認していた。
「おはようございます。」
旅人の声に、宮内は一度だけ目を上げ、軽く会釈した。
「風野。式はな、始まる前に決まる。よく見とけ。」
その声は低く、淡々としていたが、旅人の胸の奥に静かに響いた。
その日の午前、二人は病院の霊安室へ向かった。
「お願いします。ゆっくりで構いません。」
宮内は遺族にそう声をかけ、深く頭を下げた。
遺族の女性がそっと手を合わせ、涙をこらえているのが旅人の目に映った。
宮内は布の端を指先で揃え、顔にかかる髪のほつれを整え、口元に布をそっとあて直した。
「風野、遺族の目に映る最初の姿を、ここで作るんだ。……覚えとけ。」
小声でそう告げ、宮内の手はわずかも迷わなかった。
社に戻ると、宮内は祭壇の蝋燭の角度を微調整し、遺影の光の映り方を確かめた。
「光ひとつで、顔が変わる。……大事なことや。」
控室では、茶菓の位置を整え、冷たい水のコップの水滴を布でひと拭きする宮内の指先。
「こういうところで遺族の心が落ち着く。それを作るのが俺たちだ。」
旅人は頷きながら、その所作の一つ一つに目を奪われた。
遺族が控室に入ると、宮内は再び深く頭を下げた。
「ご無理なさらず、お気持ちのままにお過ごしください。」
その声に、遺族の女性がわずかに肩の力を抜いたのを旅人は見た。
夜、控室の窓の外には、盆提灯の淡い明かりがゆれていた。
旅人は一日の疲れを感じながらも、宮内の背中の輪郭が頭から離れなかった。
(表に出ないところで、式は決まる……。)
その言葉の意味が、今日の一つ一つの所作の中に刻まれていた。
茶菓を整える指、遺影に映る光を気にする目、控室の水滴をぬぐう布の感触。
(誰にも気づかれないように、誰かの心を支える。それが、宮内さんの祈りなんだ。)
外の蝉の声は遠く、控室の静けさに夜の重みが染み込んでいた。
旅人は膝の上に置いた両手をそっと握りしめた。
(俺も、あの背中のようになれるだろうか。)
静かな決意が、夜の空気とともに胸の奥に沈んでいった。
黒革の手帳 1995年8月10日
宮内さんの背中。
「表に出ないところで式は決まる」という言葉の重み。
控室の水滴をぬぐう指先、遺影に映る光を直す目の奥の真剣さ。
遺族の心をそっと支える、誰にも見えない祈り。
商店街に流れたLOVE LOVE LOVEの旋律が、静かに胸に残った。
小生、風野旅人。
