――休日を挟んだ朝の空気には、どこか新しい始まりの匂いがあった。
蝉の声はすでに強く、白い社屋の壁に朝の光がまぶしく映えていた。
風野旅人は、昨日までより少しだけ力強い足取りで、明治葬儀社の引き戸を開けた。
仲間たちの声が、この場所の空気の温かさを教えてくれるのだと、心のどこかで感じながら。
1995年8月9日 午前7時45分。
東京の空は白く霞み、朝から熱を含んでいた。
商店街では盆提灯が揺れ、風鈴の音、店主たちの掛け声、蝉の声が町に重なっていた。
旅人は一度立ち止まり、白い社屋を見上げた。
(今日も、ここから始まる……。)
深く息を吸い込み、引き戸を開けた。
「おう、風野。……少し顔が谷中の人間になってきたな。」
神田は帳簿から顔を上げ、旅人を見つめた。
(あいつ……昨日までより、ええ目をしとる。初めて来た頃の硬さが、少しだけ溶けてきたな。)
神田は心の中で静かに思う。
(社長がよう声かけとった。若いのに火を灯すってのは、こういうことなんやな……。)
旅人の短く返す「ありがとうございます」に、神田はほんの少しだけ口元を緩めた。
(まだまだこれからや。でも、ええ風に歩き始めとるわ。)
「おはようございます。」
美月は進行表を持った手を胸元で整えながら、旅人の顔に目をやった。
(あ……少し、表情が柔らかくなった。昨日までの緊張が、町の空気に少し溶けたんだ……。)
「昨日は、どちらを歩かれたんですか?」
その問いを口にしながら、美月は心の中でそっと思っていた。
(この町を歩いて、自分の足で見て、何かを感じたのね。あの目の奥がそう語っている。)
旅人の「神社のあたりを……」という答えに、美月の胸の奥に静かな安堵が広がった。
(谷中はね、歩くたびに少しずつ、見える景色が変わるの。あなたが、町の一部になってくれたらいい……。)
神田は旅人のやりとりを聞きながら、心の奥で思った。
(ああやって町の声を聞きに行く奴は、ここで生きられる。迷っても、きっと立ち上がれる奴や。)
美月は旅人の目の奥にそっと目を落とし、
(この目が、これから何を見つけて、どんな風に変わっていくんだろう……。その姿をちゃんと見守らなくちゃ。)
と、静かに決意していた。
商店街から聞こえる盆支度の声、風鈴の音、蝉の声が事務所の空気に溶けていく。
神田が帳簿を閉じ、低くつぶやいた。
「……さぁ、盆前や。風野、ぼちぼち腹くくるときやぞ。」
「はい。」旅人は短く答え、その声の奥に、確かな意志をのせた。
美月と神田の視線が一瞬交わり、二人の心にそれぞれの想いが重なった。
(ここで、共に歩くんやな。)(ここで、見届けていくんだ。)
黒革の手帳 1995年8月9日
神田さんの「谷中の顔になってきたな」という声。
その奥にあった、仲間を見守るまなざし。
美月さんの穏やかな笑顔、その奥にある「共に歩む人」を信じる決意。
この社屋の空気に、少しずつ自分が馴染んでいく感覚。
小生、風野旅人。
