陽射しが少しだけ和らいだ夏の朝、都市のざわめきがまだ遠くにある時間帯。1995年8月8日、蓮見荘の階段の手すりに朝露が光り、木造の廊下には蝉の声が静かに染み込んでいた。風野旅人は、そんな朝の中に立っていた。――これは、東京の街に自分の足跡を刻み始める、ひとつの小さな休日の物語である。
― 1995年8月8日(火)/蓮見荘とその周辺 ―
午前七時、蓮見荘の玄関を開けると、朝の空気が肌に心地よかった。昨日までの熱気がほんの少し和らぎ、谷中の街は静かな呼吸をしているようだった。
旅人は白い半袖シャツにジーンズ姿で、スニーカーの紐をきゅっと結び直すと、スーツケースではなく、軽い肩掛けバッグだけを手にした。今日は、ただ街を歩こう。それだけが、この休日の目的だった。
路地の先、商店街の入り口では、年配の商店主が店先のホウキを手に掃除をしていた。旅人が軽く会釈すると、男はホウキを止め、柔らかく目尻を下げて「おはようさん」とだけ返した。
「今日は涼しいな。散歩かい?」
「ええ、ちょっとこの辺りを見て回ろうかと……引っ越してきたばかりで」
「そうかい。ええとこやで、谷中は。曲がり角ごとにええ匂いがする街や。ほら、あっちの豆大福屋は、もうすぐ蒸し始める頃やで」
男の言葉に、旅人は小さく笑い、頭を下げて歩き出した。
商店街を抜けると、寺の塀沿いに続く細道があった。線香の香りが風に混じり、蝉の声が遠くから響いてくる。ふと、民家の軒先に吊るされた風鈴が、微かな音を立てた。見上げると、朝の光を受けたガラス細工が、淡くきらめいている。
歩いているうちに、木陰に小さな喫茶店が見えてきた。看板には「カフェ谷中」と手書きの文字。ガラス戸越しに、年配の女性店主がカウンターで新聞を読んでいた。
旅人は戸を引いて中へ入る。店内は木の匂いと、かすかに煎れたばかりの珈琲の香りで満ちていた。
「いらっしゃいませ。朝の珈琲だけでよろしいですか?」
「はい、お願いします」
窓際の席に腰を下ろすと、街路樹の向こうを新聞配達の自転車が通り過ぎた。外の喧騒は遠く、店内にはAMラジオの音が小さく流れていた。シャ乱Qの「ズルい女」が終わり、ニュースの時報が聞こえた。
カップが置かれる音。旅人は手を伸ばし、熱い珈琲をそっと口に運ぶ。苦味が舌に広がり、背筋を伸ばした。
窓の外を見れば、商店街の準備が進み、街に人が増えてくる時間だった。
「お兄さん、新しい人やね?」
店主が声をかけてきた。
「はい、蓮見荘に越してきました」
「そっか。いいとこ選んだねえ。あそこ、昔から人の出入りが穏やかな場所やから」
その「穏やか」という言葉が、旅人にはどこか沁みた。
珈琲の湯気の向こうに、見知らぬ街が静かに輪郭を現し始めていた。
店を出ると、夏の日差しが少しずつ強さを増していた。谷中銀座のアーケードでは、八百屋が店頭にスイカを並べ、魚屋の氷が朝陽に溶けていた。旅人は立ち止まり、その風景を胸に刻んだ。これが、今日という日の色だった。
ふと耳に届いたのは、近くの民家の窓から流れるラジカセの音。録音された「ジェットストリーム」の城達也の声だった。
「今宵、あなたと共に旅するのは、記憶と夢のあいだに漂う街です。」
旅人は立ち止まり、そっと目を閉じた。自分の居場所を確かめるように、東京の空気を深く吸い込んだ。
そしてまた、歩き出した。今日という一日を、静かに自分のものにするために。
黒革の手帳より
1995年8月8日(火) 谷中の街にて
小生、東京に来て初めての休日の朝を歩いた。知らない街は思ったよりも穏やかで、思ったよりも静かだった。喫茶店の珈琲の苦味が、少しだけ胸の奥の曇りを晴らした気がする。
商店街の匂い、風鈴の音、石畳の下を流れる水の気配。どれもが、ここが新しい自分の居場所だと告げてくれるようだった。
この街で、小生は何を見つけるのだろう。まだ、その答えは遠い。ただ今日のこの時間、この空気だけは、確かに自分のものだったと記す。
