――朝の葬儀社は、夜の静寂を脱ぎ、淡い光の中にまた新しい時間を刻み始める。
風野旅人は、その静かで清々しい空気の中で、初めて鈴木明治の言葉と正面から向き合うことになる。
人を送る仕事、その本当の意味を、自分の胸に問いながら。
1995年8月7日 午前7時45分。
東京の空は早くも熱を帯び、蝉の声が谷中の街を包んでいた。
商店街では盆提灯市の準備が始まり、シャッターの軋む音や店主たちの挨拶が、静かな朝の空気をほんのりと温めていた。
明治葬儀社の事務所。
朝の光が白い壁に優しく反射し、白檀の香と冷房の微かな音が、旅人の胸の奥に落ち着きを与えていた。
旅人は机の上で昨日の搬送記録を整理しながら、
(……まだ七日。けれどこの七日は、ただの時間じゃなかった。)
と、心の中で小さく呟いていた。
「風野くん。」
背後から低く落ち着いた声が響く。
旅人が振り返ると、そこに立つ鈴木明治の姿があった。
黒いスーツに朝の光が淡く降り注ぎ、その輪郭がほのかな金色に染まっていた。
「おはようございます、社長。」
旅人は深く頭を下げた。
「少し、時間をくれ。……朝の光がきれいなうちに。」
鈴木は静かに微笑み、応接へと歩を進めた。
鈴木明治の語り
応接室のソファに向かい合って座ると、鈴木はゆっくりと語り始めた。
「君がここに来て、七日か。……七日というのは不思議な節目だ。葬儀の世界で初七日といえば、魂が向こうへ歩み始める最初の区切りでもある。」
旅人は、黙ってその言葉を胸に受け止めた。
「私もな、昔は不動産屋だった。生きる場所を売る。それが仕事だった。……三十のとき、一人の客を亡くした。孤独死だった。」
鈴木の声は静かだったが、その奥に深い淵のような思いがあった。
「死後しばらくして見つかったその人の部屋は、ただ静かだった。何も語らなかった。私の心に、その静けさだけが突き刺さった。」
「だから私はこの仕事を始めた。……誰もがきちんと送られる場所を作りたかった。ただ、それだけなんだ。」
旅人は、息を詰めるようにその言葉を聞いた。
(……誰もがきちんと送られる場所。)
「君は、なぜこの仕事を選んだ?」
その問いは、穏やかだったが、鋭く心の奥に届いた。
旅人の応えと揺れる心
旅人は遠い記憶をたぐった。震災の光景。崩れた町、瓦礫の中の花、泣き崩れる人たち。
「……震災のあと、遺された人の声を聞きました。あの人は、どんな最期だっただろうと。……その問いに向き合いたかったんです。」
鈴木は静かにうなずいた。
「君は、いい目をしている。怖がっている目じゃない。迷っている目だ。迷うことは悪いことじゃない。迷わない者は、この仕事には向かない。」
旅人の胸の奥に、その言葉が深く沈んでいった。
美月と神田の見守る心
事務所の奥で、美月は進行表を手にそっとその光景を見守っていた。
(社長……あの頃と同じ目をしている。人に何かを手渡そうとする、あの目……。)
旅人の姿に、あのとき父が彼女に初めて語りかけた日の情景が重なった。
(風野さん……この場所で、あなたは何を見つけるんでしょう……。)
神田は控室の出入り口に身を寄せ、煙草に火をつけかけてはやめた。
(社長……また、ああやって若いのに火を灯そうとしてる。ええことや。……風野、お前はそこで、何を掴むんや。)
その視線は、かつて自分が同じ言葉を受けた日の、自分の姿を思い出していた。
朝の光は事務所の中を静かに満たし、蝉の声と「LOVE LOVE LOVE」の旋律が谷中の町に微かに流れていた。
黒革の手帳 1995年8月7日
朝の光に包まれた社屋。
鈴木社長の語った孤独死の客の話、「誰もがきちんと送られる場所を作りたかった」という言葉。
美月さんのまなざしの奥にあった祈り、神田さんの静かな目。
「送る」ということの意味が、自分の中で新たに問い直されている。
商店街の朝に流れたLOVE LOVE LOVEの旋律が胸に残る。
小生、風野旅人。
旅人は静かに席を立ち、机へと戻った。
朝の光の中で、次の一歩を踏み出す決意を胸の奥に固めながら。
