――盆の朝。谷中の町は、早朝からどこか落ち着かない空気に包まれていた。
蝉の声が低く響き、線香の香りが町全体をやわらかく包んでいる。
明治葬儀社の前に立った風野旅人は、扉の向こうに広がる今日一日の気配を胸いっぱいに吸い込んだ。
事務所の扉を開けると、冷房の音と白檀の香りが迎えてくれた。
「おはようございます。」
神田が「おう」と短く返し、宮内が「早いな」と笑みをこぼし、杉原は「おはようございます」と穏やかに頭を下げた。
机の前で進行表と地図を広げていた美月が顔を上げ、旅人に声をかけた。
「おはようございます、旅人さん。少し早いですね。」
「町の空気が落ち着かなくて……自然と早く出てしまいました。」
旅人が応えると、美月はほのかに微笑んだ。
「今日はまだお盆の支度が整っていないお宅が三十件。旅人さん、今日は私と一緒に動いてください。」
「はい。」
「無理をせず、でも心を込めて。それで十分です。」
白い軽ワゴン車に乗り込み、車が動き出すと、中島みゆきの《空と君のあいだに》がラジオから流れ出した。
美月はそっと口ずさみ、その声が町の線香の香と重なるように旅人の胸に染みた。
町は石畳の上に陽を反射させ、赤い盆提灯が軒先で揺れ、どの家も仏壇に供物を供え、静かな祈りの時間を迎えていた。
訪問先で老婦人が深く頭を下げ、仏壇の線香の煙が白く立ちのぼる光景が旅人の目に焼きついた。
昼が過ぎ、町の空気は熱気を帯びながらもどこかやわらぎ、子どもたちの声や遠くの風鈴の音が響き、
家々の仏壇の灯りが町全体を静かに照らすようだった。
そして、夕方。石畳に落ちる西日が長い影を作り、提灯の赤が夕暮れの光に溶けていった。
町の祈りと暮らしがひとつに溶け合うような、穏やかな時間だった。
最後の訪問先を終え、旅人は空を見上げた。町は一日を締めくくるように静かに息づいていた。
美月がハンドル越しに小さくつぶやいた。
「……今日も町に守られましたね。」
旅人は頷き、その言葉を心の奥で繰り返した。
社用車を戻し、旅人は蓮見荘へ向け歩いた。
夜風が頬を撫で、軒先の盆提灯が赤い光を揺らめかせていた。
石畳に残るわずかな熱気に、遠くから微かなラジオの《ジェットストリーム》の語りが重なる。
旅人は静かに101号室の鍵を開け、扉をそっと押した。
ぎい……と控えめな音が夜の静けさに溶け、線香の残り香が夜風とともに室内に流れ込んだ。
窓を開けると、谷中の夜の音と匂いが胸いっぱいに広がった。
(……この町の光と影が、今日も静かにここにある。)
黒革の手帳 1995年8月13日
蓮見荘の軒先の赤い灯り、101号室の扉の音、夜風と線香の香。
町の静けさと祈りが、胸の奥に深く残った。
小生、風野旅人。
