――盆の熱気がようやく和らぎ始めた夜、谷中の町には夏の終わりを告げるような静けさが広がっていた。
遠くで雷が小さく響き、湿った石畳がスナックゆりの赤い灯りを淡く映していた。
風野旅人はふと歩を止め、帰路の途中でその店の扉を見上げた。
暖簾が風に揺れ、雨の匂いが混じった夜の空気が胸に沁みた。
(……少し、寄ってみよう。)
そっと扉を押し開けると、白檀の香のような甘い煙草の香りと、木の温もりが漂っていた。
「いらっしゃい。」
滝沢ゆりの声が旅人を迎えた。
「旅人さん、珍しいわね。こんな時間に。」
「はい……少し、静かな場所に寄りたくなって。」
旅人はカウンターの端に腰を下ろした。
その横には三毛猫のたまが、気持ちよさそうに丸くなっていた。
ゆりはグラスを磨きながら、穏やかに笑んだ。
「今日は暑かったものね。お疲れさま。」
「昼、美月さんに誘われて……たなか食堂でサバ定食をいただきました。白ごはんの湯気や町の音が、不思議と胸に残っています。」
「そう……あの店の味は、町そのものだから。」
ゆりは視線を少し遠くに向けた。
「私も若い頃、よくあの店でお昼を食べたわ。谷中に来たばかりで、夜の仕事に慣れなくて、不安でいっぱいだった頃。
サバの香り、味噌汁の湯気、風鈴の音……あれに救われたの。『明日も頑張ろう』って、あの店の小さな窓を見ながら何度思ったことか。」
ゆりはグラスを置き、たまの背を優しく撫でた。
「旅人さんも、きっとこの町に救われる日が来るわ。」
そのとき、有線から流れる大江千里の「Rain」の旋律が、店内の空気を静かに包んだ。
ガラス越しのネオンの光と雨粒がその旋律と重なり、静かな詩情を添えた。
ゆりはグラスを磨く手を止め、遠くを見るような瞳で歌詞をそっとなぞった。
「……言葉にできず 凍えたままで 人前ではやさしく生きていたい……」
声に出すというより、唇が旋律に合わせてわずかに動き、耳に届くか届かないかのささやきだった。
旅人はその声に胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
(この町で生きる人の、静かな強さ……。)
「この曲は、私にとっても思い出の曲。……こういう夜には、胸に沁みるの。」
ゆりはそう言って、たまの背を撫でた。
外の雨が少し強さを増し、夜の谷中が静かに息づいていた。
グラスの中の氷がカランと小さな音を立てたとき、旅人はそっと席を立った。
外の雨音は、石畳を静かに打つリズムで続いていた。
「……そろそろ帰ります。」
旅人の声は、どこか名残惜しさを含んでいた。
ゆりは優しく微笑んだ。
「そうね、長い夜になる前に、帰りましょう。
この町の夜は静かだけど、時々、人の心に深く染みるから。」
たまが小さく身じろぎし、カウンターの上で目を細めた。
「今夜のような夜は、忘れない気がします。」
「そう、忘れなくていいの。……谷中は、そういう町だから。」
旅人は軽く頭を下げ、ゆりに会釈をした。
「ありがとうございました。」
「また、おいで。……雨の夜じゃなくても。」
旅人は扉に手をかけ、雨とネオンの光が混じる夜の町へ、そっと歩み出ていった。
背後で、扉の鈴がかすかな音を残した。
スナックゆりの扉を閉め、旅人はゆっくりと石畳の路地へと歩み出た。
雨は静かに降り続き、軒先の盆提灯の灯りが濡れた石に淡く揺れていた。
小さな水たまりに映るネオンの光が、足元の世界を別の町のように見せていた。
提灯の赤、看板の青、街灯の橙色が混じり合い、雨粒とともににじんでいた。
旅人は傘を持たず、そっと空を見上げた。
雲の切れ間から、ほんの一瞬、星がひとつだけ顔をのぞかせた。
(……こういう夜は、忘れないだろう。)
雨が髪に触れ、頬を伝い落ちていく感触が、やけに鮮やかだった。
遠くで聞こえる線香の匂い、どこかの家から微かに漏れるラジオの音、商店街の奥の風鈴の声。
旅人は歩を進めながら、そのすべてを胸に刻んだ。
黒革の手帳 1995年8月12日
スナックゆりの灯り、ゆりさんの声、たまの温もり。
Rainの旋律と、雨に濡れた町の光。
盆提灯、石畳を打つ雨音、軒先の風鈴の声。
この夜の谷中が、胸の奥に静かに残った。
小生、風野旅人。
