――盆の終わりの空は、どこか翳りを帯び、谷中の町に流れる空気には、過ぎ行く季節の名残が感じられた。
蝉の声が一層力強く響き、線香の香りが町の軒先で淡く漂う。
明治葬儀社の扉を開けた風野旅人は、今日の一日の重さを静かに胸に受け止めようとしていた。
事務所に入ると、電話のベルが静寂を破った。受話器の向こうの声は生活保護課の真壁剛志。落ち着いた声だったが、どこか申し訳なさがにじんでいた。
「明治葬儀社さん……またお願いしたいことがありまして。山岸勇一さん、72歳。身寄りがなく、日暮里記念病院でお亡くなりです。
本日12時30分に病院でお迎えいただけますでしょうか。火葬は明後日、当日までのご安置をお願いしたく。」
「承知しました。」旅人の声は自然と静かだった。胸の奥に、小さな祈りが灯るのを感じた。
神田に事情を告げると、彼は短く頷いた。
「わかった。昼に合わせて用意しよう。お前も水でも飲んで、少し休んでおけ。」
外では、町の祈りの音が静かに流れていた。軒先の風鈴の音、石畳を掃く箒の音、遠くの仏壇に手を合わせる声……谷中の町が今日も静かに生きていた。
昼が近づくと、白い軽ワゴン車に道具とストレッチャーを積み込み、神田と旅人は日暮里記念病院へ向かった。
夏の陽射しは強く、アスファルトの照り返しが目にまぶしい。
築年数の経った病院の白壁が、昼の光を淡く反射していた。
ガラス扉の向こうには、白衣の職員と待合室にうつむく人影。冷たく白い蛍光灯の光が、町の熱気と対照的だった。
霊安室の静寂の中、二人は無言で山岸勇一の遺体をストレッチャーへ移した。
神田の手の動きは慎重で、旅人もまた、無言の祈りを込めるようにその手を添えた。
病院を出ると、蝉の声が熱気に溶けるように響き、町の祈りと重なった。
明治葬儀社の遺体安置室に棺がそっと置かれたとき、神田は低く言った。
「……ここで、少しの間だけど安らかにな。」
旅人は線香を手に取り、火を点け、煙が静かに立つのを見つめた。線香の香り、白木の匂い、町の音──それらが安置室に満ちた。
火葬までの日々、旅人は朝、昼、夜と安置室の戸口で線香を供え、そっと手を合わせた。
昼間の町は、石畳の熱、風鈴の音、線香の香りに包まれていた。
夕方、寺の鐘の音が町に響くと、町のすべてが一日の祈りを締めくくるようだった。
夜、蓮見荘に戻った旅人は、灯りを落とし、窓を開けた。夜風が盆提灯の香りを運び、谷中の夜に溶けた。
町は蝉の声をやめ、線香の残り香だけが漂っていた。
旅人は心の中でつぶやいた。
「……山岸さん、あなたにこの町の祈りは届いただろうか。」
身寄りのない死、町の音、静かな祈り──そのすべてが今日の光と影として胸に積もっていく。
夜空の端で、赤い提灯の灯りが微かに揺れた。旅人は黒革の手帳を開き、静かに記した。
黒革の手帳 1995年8月15日
日暮里記念病院の白壁、霊安室の冷たい空気、線香の香、谷中の町の音。
山岸勇一さんの静かな旅立ちのための時間。
この夜の光と影が、深く胸に残った。
小生、風野旅人。
