その旋律は、遠く過ぎ去った場所と、今いるこの町をつなげてくれるようだった。
風に乗って届いたその歌が、知らぬ町の商店街で、ふと旅人の背中を撫でていく。
──それだけで、心の奥に、小さな灯がともる。
ー あの歌が、ここでも流れていた ー
1995年7月31日、午後12時すぎ。 谷中の空には白く透き通るような夏の陽がかかり、商店街の上空をゆっくりと鳩が横切っていった。
風野旅人は、蓮見荘の部屋で荷解きを終えると、ひと息ついて立ち上がった。 薄手のTシャツに着替え、首に手ぬぐいを巻いて、財布と鍵だけをポケットに入れる。履き慣れないスニーカーの紐をきゅっと締め直すと、玄関扉の鍵をそっと引いた。
部屋の前には、三毛猫の“たま”が廊下の手すりの下で昼寝をしていた。旅人の気配に気づいたのか、片目だけを開けてこちらを見て、しかし特に何をするでもなく再び目を閉じた。
言葉のない「いってらっしゃい」をもらったような気がした。
アパートの階段を降り、坂道をゆっくり下る。蝉の鳴き声が、頭上から断続的に降ってくる。じっとりと汗ばむ空気の中、それでもどこか、風が軽かった。
ほどなくして、谷中銀座商店街の入り口にたどり着く。赤いアーチ状の看板には、商店街の名前が白い文字で染め抜かれていた。両側に軒を連ねる店々からは、揚げ物の香りや果物の甘い匂いが漂ってくる。
平日の昼。人通りはまばらだが、常連客らしき年配の女性たちが店先で談笑している。商店街のスピーカーからは、有線放送で槇原敬之の「No.1」が流れていた。
「♪ 君が No.1 ずっと No.1」
ふと耳に残るメロディに、旅人は歩調を緩めた。店先のスイカを眺めながら、その一節が、胸の奥に波紋を描く。
──ああ、神戸でも、同じ曲を聴いたことがあった。
震災のあと、仮設住宅に住んでいた親戚の家に向かう途中、カーラジオから流れてきたのがこの歌だった。あのときの道路、あの時の匂い、誰かが泣いていた気配。それらが、一瞬にしてよみがえった。
商店街の小さな和菓子屋の前で足を止めた。冷房の効いた室内から、年配の女性が出てきて、にこやかに頭を下げる。
「暑い中ようこそ。麦まんじゅう、よろしかったらひとつ、どうですか?」
「……じゃあ、ひとつだけ」
受け取ったまんじゅうの、まだほんのり温かい感触。紙袋の中から立ちのぼる麦の香ばしさ。旅人は、少し照れくさそうに会釈をしてから、商店街の端の小さなベンチに腰をおろした。
午後の光は、すこしずつ角度を変えながら、地面に細長い影を落としていた。
ベンチに座ると、買ったばかりの麦まんじゅうを口に運び、ゆっくりと噛む。あんこは控えめな甘さで、どこか懐かしい味がした。
ここが東京であることを、忘れそうになる。人の声、風鈴の音、氷屋の扉の開閉、八百屋の掛け声。 それらがまるで、自分の中の記憶と重なって、知らない町が、少しだけ“知っていた場所”のように感じられる。
旅人はベンチの背にもたれながら、青空を見上げた。
──ここで、やっていけるだろうか。
そう自問する声に、明確な答えはまだない。けれど、答えを急ぐ気持ちも、もうなかった。
再び歩き出すと、スナックゆりのある通りの方へと、ふと足が向かう。まだ陽は高く、店は開いていない。けれど、あの場所が“帰れる場所”になるかもしれないという、かすかな予感が、旅人の胸に灯っていた。
【黒革の手帳】
1995年7月31日 午後12時過ぎ 谷中銀座商店街を歩いた。焼き魚の煙、風鈴の音、知らない人の笑顔。 ただそれだけで、少しだけ、自分が受け入れられた気がした。 あの歌が、東京でも流れていたことに、なぜか安心した。
──小生
