昭和の名残を引きずった木造アパート、蓮見荘の廊下には、夏の朝の匂いが漂っていた。打ち水の湿り、洗濯物から落ちた柔軟剤の甘い香り、遠くのラジオから聞こえる演歌。静けさの中に暮らしの音が滲んでいた。
ー 1995年7月31日 午前9時 ー
木の階段を軋ませながら、風野旅人(24歳)は二階へと上がった。
朝の空気は湿っていて、階段の手すりは陽に焼けた木の匂いがした。
踊り場に差しかかったとき、旅人の目に、その人影が映った。
三浦梢(23歳)。
紺のロングスカートに、淡いグレーのTシャツを重ね着していた。手には小さな洗濯かご。肩にかけた洗濯ばさみのピンチが、さりげなく揺れている。
旅人は一歩、足を止めた。
梢のほうも、ふとした拍子にこちらを振り返る。
──時間が、ほんのわずか、止まったような気がした。
言葉より先に、互いの目が「思い出した」ように見つめ合い、そしてどちらからともなく、微かな会釈が交わされた。
「……おはようございます」
「おはよう……ございます」
その声は重ならず、けれど間を縫うようにぴたりと合っていた。
風が、乾いた音で踊り場を抜けた。
梢は視線を少し逸らすようにして、かごの中の洗濯物を整えた。
旅人も、それを邪魔しないよう一歩引いて壁際に寄った。
けれど沈黙が気まずいものにはならなかったのは、足元から忍び寄る影──三毛猫の“たま”の存在だった。
「……お?」
旅人の足に、やわらかな毛並みがすり寄ってくる。
くるりと足元を一周して、たまはぺたりと座り込み、顔を上げて旅人を見上げた。
「……あ、たまちゃん」
梢の声が、どこかほっとしたように漏れる。
旅人はしゃがみ込んで、たまの頭を軽く撫でた。三毛猫は目を細めて、喉を鳴らしているようだった。
「よく寄ってきます?」
「……いえ。たまちゃん、気まぐれなんです。……でも、好きな人には、ちゃんと覚えてるんですよ」
「……覚えられてたのかな、俺」
そう呟く旅人の横顔を、梢はふと見つめた。
言葉はそれ以上、交わされなかった。
けれど、旅人の指先を預けたたまの静かなぬくもりと、踊り場に満ちる蝉の声が、まるでふたりの間に、何か古い手紙のようなものをそっと差し出すようだった。
【黒革の手帳】
1995年7月31日 午前
三浦さんと、踊り場で再会した。
言葉は少なかったが、不思議と時間が緩んでいた。
猫が先に挨拶してくれる朝も、悪くない。
