Vol.01『初出勤の朝、記憶の扉が開く』
――死者を送る仕事は、静寂の中から始まる。蝉の声、白檀の香り、そして人の気配が希薄になる朝の町。風野旅人が踏み出したのは、“誰かの終わり”を見届ける場所だった。その足音が葬儀社の石畳に響いたとき、彼の人生もまた新たな節目を迎えていた。
1995年8月1日 午前7時45分/明治葬儀社
東京・谷中。蝉時雨がひときわ激しく、街路樹の上で響きわたっていた。旅人は、白壁の五階建ての社屋を見上げた。真夏の光を浴びて、古びた壁はやや黄味がかって見える。谷中銀座商店街のアーケードを抜けてきたばかりで、通りのスピーカーからはスピッツ『ロビンソン』のイントロが微かに耳に残っていた。
街の片隅で、腰にPHSをつけた若者が急ぎ足で駅へ向かう。新聞の号外には巨人が阪神を下した昨夜の結果が載り、書店の店先では「パソコン特集号」と銘打った雑誌が積まれていた。旅人は無意識にそれらを目に入れながら、社屋の引き戸に手をかけた。
「よう来たな」
背後から低く、響く声。黒の作業着を着た神田が立っていた。彼の短く刈った髪と煙草の煙、その目の奥の陰りに、旅人は言葉なく頭を下げた。
「……風野旅人です。今日から、お世話になります」
神田は小さく頷き、黙って建物の中へと進んだ。その背中を追うように旅人も足を踏み入れる。白檀の残り香、冷房の効いた空気の中で微かに響く『JET STREAM』のナレーション。《遠い地平線が消えて……》。あの声は、学生時代の孤独な夜を思い出させた。
1階の事務室には杉原と村井がいた。杉原は「今日からね。よろしく」と柔らかく声をかけ、村井は目礼だけを送ってきた。旅人は頭を下げ、2階の控室で支給された制服に袖を通した。廊下に漂う白檀の香りに、旅人の胸が一瞬詰まる。
式場はまだ静まり返っており、白木の祭壇が半分片付けられたままだった。光の差し込む大窓の外では、蝉がひときわ強く鳴いている。旅人は鏡の前でネクタイを結び直し、深く息を吐いた。初日くらいは、見た目だけでもきちんとしていたかった。
制服に着替えて事務所へ戻ると、鈴木美月が立っていた。黒のワンピースに白い襟が朝の光を柔らかく反射する。「おはようございます、風野さんですね。父が、社長が後で呼ぶって言ってました」「よろしくお願いします」──声のやり取りは短いが、その瞳の奥に緊張と覚悟が見えた。
そして、社長室の奥から鈴木明治が現れた。五十を過ぎた体に背筋を伸ばし、旅人を見据える視線は柔らかさの奥に鋭さを宿していた。「赤田さんの紹介やな。人の死と向き合うんは簡単やない。でも、慣れたらあかんで」──短い言葉の中に、この場所の重みが凝縮されていた。
その日、初めての搬送は台東区内の病院だった。蝉の声を切り裂く救急車のサイレンが遠ざかり、病室の一角では老女が白布にくるまれ、静かに横たわっていた。神田の「お世話になります。明治葬儀社です」という声だけが響く。遺族は無言で頭を下げ、涙をこぼした。
ワゴン車での帰路、旅人は言葉を発することができなかった。目に映る町の景色はどこか遠く、蝉の声と街角の『ロビンソン』が胸に刺さった。霊安室に老女を安置し終えたとき、美月が小さく「お疲れさまでした」と声をかけた。「……感じたものはあります。でも、まだ……」と言葉を探す旅人に、美月は「手帳に書いてみてください」とそっと助け舟を出した。
【黒革の手帳 1995年8月1日】
蝉の声と白い社屋、PHSの音、ロビンソンの旋律、ジェットストリームの声。巨人と阪神の試合結果。街の風景の全てが、今日の“初めて”の記憶に重なった。小生、風野旅人
その日、夕暮れの谷中銀座には再び『ロビンソン』が流れ、空は薄く茜色に染まっていた。旅人は立ち止まり、明治葬儀社の社屋を見上げた。その白い壁が、ほんのわずかに夜の色を帯び始めていた。
