午後の風、猫のまなざし【蓮見荘】

午後の風、猫のまなざし
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人の暮らしは音と匂いでできている。
誰もいない部屋で、ふと窓を開けたときに感じる風の温度、どこかの家から流れてくる洗剤の香り——そんなものが、見知らぬ町を“暮らし”へと変えていく。
東京・谷中に引っ越してきた午後、風野旅人は初めて「風の輪郭」を感じた。

ー 1995年7月30日(日) 午後 ー

午前の強い陽射しがひと段落し、軒下に影が伸び始めた頃。
風野旅人は、蓮見荘101号室の畳の上に座っていた。

扇風機はない。音のしない部屋だった。 だが、ふと開けた台所の小窓から、風がひとすじ、やって来た。

その風は、洗濯物の柔軟剤の匂いを含んでいた。 あるいは、もう少し向こうで炒め物が始まった音も交じっていたかもしれない。どれも、旅人には久しく感じていなかった“生活の温度”だった。

小窓を開け放ったまま、彼はそのまま立ち上がり、縁側のように設えられた廊下側へそっと足を向けた。

すると——そこに、いた。

猫。

三毛。右耳の先が少しだけ欠けていて、毛並みは陽を受けてかすかに金色に透けて見える。

風野旅人は立ち止まった。
猫は廊下の隅にじっと座り、こちらを見上げている。

警戒しているわけではない。 かといって、懐いているふうでもない。 ただ、“知っている”ような目で、まっすぐにこちらを見ていた。

旅人もまた、何も言わずにその視線を受け止めた。

数秒後、猫はゆっくりと立ち上がり、くるりと背を向ける。 足音ひとつ立てず、階段の方へと歩いていき、角を折れて消えた。

それだけだった。けれど、その数秒が、旅人の心に確かに残った。

何も語られない共鳴——そんなものが、この建物には宿っているのかもしれない。

部屋に戻った旅人は、黒革の手帳を開いた。 インクの染み込みを待つように、ゆっくりと万年筆を走らせる。

部屋の隅にはまだ段ボールがひとつ開いたままだった。中には畳んだままのワイシャツと、使い慣れた文房具がいくつか。ラジオの小さなチューナーが、その箱の隅に納まっていた。

ふと、旅人はそれを取り出し、手のひらに乗せてみた。

カチリ。

スイッチを入れると、雑音交じりの電波のなかに、誰かの声がかすかに混じっていた。

「……本日午後の交通情報……」

違う、と旅人は思った。

チューナーを回す。指先に伝わる微かな振動。ダイヤルの感触。 それは、まるで風景を手繰るような動作だった。

「……今夜も、あなたの旅のお供に……」

その声が聞こえたとき、旅人は小さく息を吐いた。

『ジェットストリーム』——学生時代から、夜の静けさに寄り添ってくれた声。 神戸の夜、雨の夜、ひとりで暮らした夏の夜——そのすべてに、この声があった。

今、東京の部屋でも、それが同じように流れている。

「……遠い地平線が消えて……」

旅人はそのまま横になった。 畳の匂い。風の余韻。猫のまなざし。

目を閉じると、遠くで風鈴が鳴った。 誰の家のものだろう。 旅人は、知らなくていいと思った。

風が、再び部屋を通り抜けていった。

【黒革の手帳】

1995年7月30日 午後 記

窓を開けたら、猫がいた。三毛。耳が少しかけていた。こっちを見てた。目を逸らさなかった。名前も声もない。でも、なんか“わかる”感じがした。この建物には、音のない挨拶がある。たぶん、それが一番、信用できる。

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悠々自適なアラフィフライフを楽しむ"よこみ"との何気ない日々を綴るブログ。

こんにちは!私たちは、アラフィフの"Tabibito"と、パートナーの"よこみ"です。充実した人生を送りながら、穏やかな時間を共に過ごしています。

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