言葉にならない瞬間がある。 誰かと出会った時でもなく、別れた時でもなく、ただ時間が緩やかにすれ違う午後のような──そんな時、人はふと、名前のない気配に触れるのかもしれない。
ー 1995年7月30日 午後3時過ぎ / 蓮見荘 中廊下・共用洗濯機前 ー
陽が傾き始めると、蓮見荘の木製の廊下には、洗濯物から滴った水が陽に透けて、まるで夏の記憶が床に滲んでいるようだった。
風野旅人が部屋を出たのは、まだ東京の風景に慣れぬ自分を歩かせておきたかったからだ。
洗濯機のある突き当たりの共用スペースには、ちょうど白いワンピース姿の若い女性がひとり、洗濯物を取り出していた。足元には脱ぎかけのサンダル、少し膝を折ったその背中からは、静かな所作の気配が伝わってくる。
ふいに、横をすり抜けるものがあった。
三毛猫──たま。
音もなく通り過ぎたその猫は、洗濯機と壁の隙間に入って、ひとつ丸くなって座り込む。
「……あれ、この子」
女性が気づき、小さく膝をつく。
「ごめんね、びっくりさせちゃった?」
猫は何も言わず、目を細めただけだった。
風野が数歩近づいて、「こんにちは」と声をかけると、彼女は驚いたように立ち上がった。
「……あ、すみません。音、立てちゃってたかも」
「いえ、僕の方こそ。急に声をかけてしまって」
どこか気まずさの残るやり取りのあと、彼女は白い洗濯かごを抱えながら、柔らかく微笑んだ。
「三浦梢です。……205号室です」
「風野旅人といいます。101号室に、今日越してきました」
「あ、じゃあ。……ようこそ、蓮見荘へ」
挨拶は簡素だったが、その言葉のなかに“この場所を知っている人間”の静かなあたたかさがにじんでいた。
梢の視線がそっと猫に戻る。
「この子、“たま”って、呼ばれてます。たぶん、誰かが昔そう呼んだのが残ってるんでしょうね。どこに住んでるのか、誰も知らないんですけど」
「さっき、僕の部屋の前にも座ってました」
「そうですか……じゃあ、旅人さんのこと、ちゃんと“見にきた”のかも」
風野は言葉に詰まり、猫を見た。たまは目を細めたまま、洗濯機の影で動かない。まるで「ここにいる」とだけ伝えるように。
その時、たまがゆっくりと立ち上がり、まっすぐ風野の足元へ近づいてきた。
そして、彼の足にそっと身体を擦り寄せた。柔らかな毛並みが一瞬、旅人の裾を撫で、すぐに離れる。
その仕草はまるで「ようこそ」とでも言っているようだった。
「……喋らない存在って、いいですよね」
梢がぽつりとそう言った時、風が廊下を通り抜け、どこか遠くで風鈴が鳴った。
その音に、たまは一度だけ小さく尻尾を揺らし、やがて立ち上がり、何も言わずに踵を返した。
午後の光の中、三毛猫は再び音を立てずに廊下の影へと消えていった。
その夜、風野旅人は黒革の手帳に記す。
七月三十日、午後。共用廊下にて三浦梢さんと出会う。 三毛猫“たま”は、洗濯機と壁の隙間に身を潜め、やがて小生の足元に身を寄せた。 何も語らず、ただ一度だけ寄り添い、去っていった。 この建物には、口数の少ない者たちの方がよく馴染むのかもしれない。 小生もその一人であろうと思う。
