鍵を回す音は、小さくても記憶に残る。
それは新しい日々の始まりの合図であり、かすかに響く別れの余韻でもあった。
この日、風野旅人は、東京・谷中の小さなアパートの一室に足を踏み入れる。
1995年7月30日(日) 午前10時すぎ
村上の姿が階段を折れて消えていくと、風野旅人は静かに息をついた。
アパートの通路に、日射しが斜めに差し込み、壁の小さなひび割れがくっきりと浮かび上がっている。
彼の足元には、神戸から持ち込んだ黒いスーツケースが一つ。角は少し擦れて、ところどころ白くなっていた。
101号室の玄関扉は、アルミサッシと木枠が組み合わされた簡素な造りだった。
手元の鍵は、真鍮色でやや重く、ひんやりと指先を冷やす。
「……」
旅人は、鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくりと回した。
乾いた「カチリ」という音が、想像していたよりも小さく響いた。
扉を押し開ける。
その瞬間、室内にこもっていた空気がわずかに動き、夏の湿気を含んだ微かな木の匂いが、鼻腔にふっと触れた。
踏み入れた足の裏に、畳のやわらかい感触。
壁には経年変化による日焼けの跡。木枠の窓ガラスには薄く埃が積もっていて、その向こうから、裏手の植木の緑が静かに揺れていた。
「……静かやな」
旅人はそうつぶやきながら、扉をそっと閉めた。
玄関脇に靴を揃え、畳に正座するように座り込んだ。足元には、擦り切れたフローリングの縁。見上げれば、天井には小さな染みがあった。
部屋は6畳一間。北側に押入れ、東側に台所。風呂はない。
だが、なぜかそのすべてが「不自由」ではなく、「解放」に思えた。
誰もいない。誰も知らない。
ここから始めればいいのだ、と体のどこかが、そう言っている気がした。
彼は、スーツケースの中から一冊の手帳を取り出した。
黒革の表紙。角は使い込まれて丸くなっている。
その中に、日付を書いた。
【黒革の手帳】
1995年7月30日 記
初めて扉を開けたとき、誰の声もなかった。 でも、それが怖くはなかった。 風の通り道のような部屋。畳の香りが、妙に懐かしかった。 ここに、暮らしてみよう。できるだけ、正直に。
