東京の夏は、神戸のそれとはどこか違っていた。
湿気の質、風の抜け方、蝉の鳴き声の遠さ──どれも似ているのに、何かが足りず、そして何かが余分だった。
風野旅人は、そんな「違い」に気づきながら、スーツケースひとつを引いて谷中の路地を歩いた。
住む場所を変えるというのは、過去を置いていくことだ。だが、それと同時に、「何を持ってきてしまったか」にも、きっと気づかされる。
そして蓮見荘──
その場所には、風が通り、音が住んでいた。
他人の生活音が重なりながらも、不思議と心を侵さない。
孤独を許容しながら、孤立させない。
そんな空気が、ここにはあった。
ー 『ただいま』のない扉の前で ー
東京駅・八重洲口。
午前9時。
建ち並ぶ高速バスの車列の間を縫うようにして、人々がそれぞれの「これから」を手に歩き出していた。
スーツケースを引きずりながら降り立った風野旅人(24歳)は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
駅ビルの壁面に貼られた『ポケベル新料金プラン』のポスター、頭上には「Windows95がやってくる」という雑誌の見出し。
通り過ぎる男子高校生のTシャツには「GLAY」のロゴ。
すべてが、旅人にとって「知ってはいるけれど、馴染みのない」東京の断片だった。
ポロシャツ姿のまま、旅人は駅の北側へと足を進める。
JRの山手線、地下鉄銀座線、千代田線。谷中までの道は、地図の上では簡単でも、実際には心の迷路に似ていた。
――“迷ってはいけない”という感覚だけが、足を前へ前へと運ぶ。
上野駅を過ぎ、不忍池の匂いを横切り、谷中の坂道に入る頃には、陽射しが額にじんわりと汗を浮かべていた。
夏の日曜日。
蝉の声は、東京でも変わらなかった。
ただ、声の重なりがどこか低く、コンクリートの壁を跳ね返って耳にまとわりつく。
坂を少しだけ下った先、細い舗装道の端にひっそりと建つ、二階建ての木造アパート。
名前は「蓮見荘」と掲げられているが、表札の鉄板はわずかに錆びて、陽の加減では読みにくい。
風野旅人(24歳)は、スーツケースを足元に置き、アパートの前に立ち止まった。
手元には、赤田慎司から預かった封筒と地図、そして「村上さん」という名前が書かれた紙切れがある。
軒下には洗濯物が揺れ、表札の金属板は長年の雨に打たれ、文字が少し擦れている。
屋根の上には、一匹の三毛猫。
旅人の姿に気づくと、尻尾だけをふわりと立て、目を細めたまま寝返りを打った。
「……ここか」
ポロシャツの襟をつまんで風を通しながら、旅人は息をひとつ吐く。
手元のメモには、“101号室、管理人:村上”という文字。
と、その瞬間、建物の横手から、風鈴の音と共に一人の男が現れた。
グレーの作業ズボン、白いタオルを首にかけた男は、年の頃五十代後半。背は低いが、目元の皺が深く、口元に刻まれた笑みが人を緩める。
「あんたが……風野さんやろか?」
男は、そう言いながら近づいてきた。
右手には、鍵の束。左手には、帳面とファイル。
「よう来なさったなあ。村上や。まあまあ、えらい暑いやろ、こっちに来て座りぃ」
敷石の角に据えられた木のベンチ。旅人は小さく頭を下げて、そこに腰を下ろした。
屋根の下には、扇風機のような風はない。ただ、時折、通り抜けるような涼しさがある。
村上は、旅人の荷物をちらりと見て、ふと笑う。
「……ひとつだけか。よう詰め込んだな」
「はい。……必要なもんだけ、にしました」
「ええこっちゃ」
言葉を交わすあいだも、村上の目線はこの建物全体を、まるで“家族”を見るように柔らかく辿っていた。
「ここな、201号室には滝沢ゆりさんて人がおってね。スナックのママやけど、料理がええねん。商店街の中にある“ゆり”て店。夜中まで灯りがついとる。定食もあるし、あんたみたいな単身の人はよう通うと思うで」
「へえ……」
「それと、205号室の三浦さん。大学に通いながら、ゆりさんのとこでバイトしとる。あの子は気立てがええ。今の若い子には珍しいくらい、よう動く」
「……はい」
「203号室には田辺さん。岩手からこっちに来てはって、あそこも一人暮らしや。静かな人やけど、“ゆり”にはよう顔出しとる。……あそこは、ええ距離感を持ってるんやと思う。誰にも踏み込みすぎんし、ひとりでも、淋しない」
旅人はうなずく。
猫がまた、屋根の上で身体を伸ばしていた。
「……ここ、静かですね」
「せやな。東京のなかで、まだ“余白”がある場所かもしれへん。
あんたが来るって聞いたときな……この町が、受け入れてくれるとええなって思うたんよ」
そう言って、村上は旅人の手に鍵をそっと乗せた。
「101号室。南向きや。風は、ええ具合に抜けるよ」
旅人は立ち上がり、深く一礼した。
その背を、村上は黙って見送った。
朝の蝉の声が、空へ吸い込まれていった。
【黒革の手帳(1995年7月30日 記)】
東京駅から谷中へ。
一晩をかけて、神戸からここへ運ばれてきたような気がする。
蓮見荘の屋根の上にいた猫と目が合った。
あの目には、東京の誰よりも、静かな“理解”があった気がする。
……蓮見荘。思っていたより、ずっと静かだった。
“ただいま”と“おかえり”のあいだには、たぶん沈黙しかない。
でも、村上さんの声には、不思議と、何も言わんでもええような安心があった。
小生、ここで暮らしていく。しばらくは、深呼吸を覚えるように。
