眠れない夜を越えた者にとって、朝は優しさではなく、ただの「現実」だった。見知らぬ都市の空気、名前だけを知る駅、そして降り立った瞬間にすべてが動き始めてしまう速度の中で、風野旅人はひとり、立ち尽くしていた。――これは、喪失の余韻と共に始まる、新しい静けさの物語である。
― 1995年7月30日(日)/東京駅八重洲口 ―
午前九時、東京駅八重洲口。夜行バスの車体が静かに停車した。
フロントガラス越しに見える東京の空は、鈍く濁った薄灰色だった。明けきらない明け方の光が、巨大な都市の屋根とガラスの隙間に差し込み、全体を淡い鉛色に包んでいる。澄んだ青ではない。けれど、それが確かに「新しい一日」なのだと知れる空気があった。
風野旅人は、最後列から三列前の窓際席に座ったまま、しばらく動かなかった。
眠ったふりのまま、夜を越えた。眠れなかったというよりは、眠ることを選ばなかったのだ。カーテンの隙間から覗く外の景色が、少しずつ都市の輪郭を取り戻していくのを眺めながら、時間のかたまりのようなものを心のなかで砕いていた。
アナウンスが、機械的な声で停車を告げる。
「……東京駅、終点でございます。本日もご乗車ありがとうございました……」
重々しく扉が開く音がする。空気が、違っていた。神戸の夜と、東京の朝とでは、粒子の質がまるで違う。湿度が高く、空気が肌に貼りつく。アスファルトの匂いと、都市の目覚める音。無数のクラクションが遠くに連なっている。
旅人は、肘掛けに置いた黒革の手帳を取り上げ、ポケットに滑り込ませる。スーツケースのハンドルを立て、深く一呼吸。ゆっくりと立ち上がり、通路へと足を踏み出す。
バスを降りると、いきなり照りつけるような都会の“白い空気”が肌を包んだ。日差しはまだ弱いのに、都市のすべてが“起きている”気配を発していた。建設中のビル、シャッターの開きかけた商店、新聞を抱えて歩く男たち、駅舎の構内へ吸い込まれていく無数の靴音。
八重洲口のバスターミナル脇には、夜行バスを待っていた人々がゆっくりと散っていく。タクシー乗り場に向かう者、コンビニの明かりに吸い込まれる者、手をつなぐ恋人、スマートなスーツ姿のビジネスマン、全員がどこかへ“続いている”。
旅人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
片手にスーツケースのグリップ、もう片方の手は軽くポケットの中。足元のアスファルトが微かに震えているように感じた。
「……あぁ、来てしまったんやな」
声に出したわけではない。
東京は、どこにも優しくなかった。けれど、それを拒むようでもなかった。ただひたすらに、無関心だった。
それが逆に、旅人にはありがたかった。誰にも見られていない気がした。誰の記憶にもまだ自分は存在していないという感覚。神戸の仮設住宅、父の横顔、会社の机、あの駅前のバス停。そのどれもが、今の自分に触れてこない。
カラスが、近くのビルの看板の上で鳴いた。
「東京や」
それだけを、心の中で呟いた。
歩き出す。
蓮見荘までは、山手線で上野まで出て、そこから地下鉄千代田線で千駄木。地図を何度も見て確認したルート。何ひとつ驚きはないはずなのに、切符を買う指先が、ほんの少しだけ震えた。
旅人は、東京駅構内の自動券売機の前で、小銭入れを開いた。
その中に、父が最後に手渡した千円札が、一枚だけ残っていた。
ポケットからそっと抜き出し、無造作に差し込む。切符が吸い込まれる音がして、ほんの一瞬、頭の中にあの日の台所の風景がよぎる。背中を向けた父の輪郭。何も言わなかった、あの数秒。
風野旅人は切符を受け取り、スーツケースを引きずりながら、地下へと続くエスカレーターに足をかけた。
世界は、もう始まっていた。
それでも、彼にとっての“朝”は、まだ少し先にあった。
【黒革の手帳】
1995年7月30日(日) 東京・八重洲口 バス停前
夜行バスの窓から見えた東京の空は、神戸とはまるで違う匂いがした。
見送る人もなく、迎える人もいない朝。 誰の記憶にも触れず、誰の名前にもまだ属さない場所で、 小生はただ、立っていた。
湿度の高い空気に包まれながら、 目の前の都市が“始まってしまっている”ことに気づいた瞬間、 胸のどこかが少しだけ後退した。
この街には、まだ何の言葉も持っていない。 ただ、父の手から渡された最後の千円札だけが、 かろうじて「昨日」の名残だった。
切符を受け取る指先に、少しだけ、重み。
小生、 ようやく「終わり」を経て、 この見知らぬ朝に“足を置く”ことができた気がする。
