朝という時間帯には、不思議な神聖さが宿る。まだ誰も手をつけていない風景に、一日の始まりと終わりの気配が混在しているからだ。1995年7月28日、金曜日。神戸の街に差す光は湿り気を含み、蝉の声が遠く近くに重なっていた。風野旅人(24)は、今日も変わらず、社屋の鍵を開ける。 だがその手の内には、別れの輪郭がはっきりと浮かんでいた。
第一節:掃除という儀式
始まりとは、決して派手なものではない。静けさのなかに身を置き、誰に見られるわけでもない行為を、淡々と繰り返すこと。その中で、人は少しずつ、自分の輪郭を確かめていく。
旅人にとっての“始まり”は、掃除だった。入社初日から欠かさず行ってきた一連の所作は、いつしか身体の一部になり、誰にも知られないところで彼を守り続けていた。

第二節:たわいもない会話
日常の中で交わされる何気ない言葉──それは、あとになってから、深く心に残る。 午前八時、いつものように階段を駆け上がってきた宮田の姿を見たとき、旅人はふとそんなことを思った。
誰かと何気なく言葉を交わすことが、“日常”を実感させてくれる。だからこそ、その日常が終わるときには、どんな些細なやりとりも、胸に焼きついてしまうのかもしれない。

第三節:屋上と、赤田慎司の言葉
言葉より先に風が吹く。声をかけられる前に、相手の背中が何かを語りかけてくる。
旅人が社長に呼ばれたと聞いたとき、彼の中にはひとつの予感があった。 それは挨拶でもなく、送別でもなく──たぶん、“確認”だった。
過去と未来をつなぐ中間地点。五階の屋上には、言葉にならないものが、風に溶けるようにして漂っていた。

第四節:去り際と記憶
別れはいつも、音を立てない。
それは風がカーテンを揺らすように、誰にも気づかれぬまま、少しずつ日常の景色を変えていく。
陽が最も高くなる午後一時過ぎ。販売営業部のフロアは冷房の唸る音と、キーボードを叩く微かな音で満ちていた。けれどそのざわめきの中に、旅人の心はどこかうわの空だった。
今、目の前にある書類の束。顧客名、物件番号、契約日の印字。──あと一日で、これらと関わる日々が終わると思うと、紙の手触りさえも、妙に実感をともなって指に残った。

【黒革の手帳:1995年7月28日(金)】 ──退職前日。
午前七時三十分。今日も変わらず掃除から始めた。
営業車の窓に跳ねた水滴が、朝陽を受けて七色に光っていた。
社内に最初に入るあの静けさが、好きだった。空気がまだ誰の言葉も含んでいない。机を整えながら、五年前の自分を思い出した。
何も分からず、とにかく“居場所”が欲しくて必死だった。掃除は、誰かに褒められるためじゃない。
何も語らない分、自分の手のひらが記憶になってくれる気がしたからだ。午前八時すぎ、宮田くんが階段を上ってきた。
相変わらず音楽と缶コーヒーを片手に、あの軽さで。
けど、別れを前にした彼の言葉は、少し重かった。
それが妙に、嬉しかった。“ちゃんと終わらせる仕事”──
そう言ってもらえたのは、正直、救いだった。黙って続けることしかできなかったけど、
それでも、誰かに伝わる何かがあったなら、
この五年は、無駄じゃなかったと思える。社長から預かった紹介状の重み。
……神戸のこの空の下、心に残るものばかりや。明日、出発する。
小生、風野旅人
