日常の中で交わされる何気ない言葉──それは、あとになってから、深く心に残る。 午前八時、いつものように階段を駆け上がってきた宮田の姿を見たとき、旅人はふとそんなことを思った。
誰かと何気なく言葉を交わすことが、“日常”を実感させてくれる。だからこそ、その日常が終わるときには、どんな些細なやりとりも、胸に焼きついてしまうのかもしれない。
ー変わらないやりとりの温度ー
階段の奥から軽快な足音が近づいてくる。スニーカーのソールが鉄骨を打つ、規則正しくも少し力の抜けた音。それが、宮田信一郎(25)の到着を告げる合図だった。
「おーい、おはよう旅人。……って、また掃除してたのかよ?」
ネクタイをゆるく巻き、右耳にはシルバーのイヤホン。TRFの『Overnight Sensation 〜時代はあなたに委ねてる〜』が、音漏れ寸前のボリュームで流れている。宮田の朝の定番だった。
「癖なんです。やってると落ち着くんで」
旅人は、机の角を拭き終えた雑巾を丁寧にたたみながら答える。
「いやぁ、律儀だなあ。ここまで来ると尊敬するわ」
そう言いながら宮田は、缶コーヒーを片手に自席へ向かう。コンビニの白いビニール袋から、紙パックのサンドイッチとポテトサラダが顔をのぞかせていた。
「送別会、明日だよな。どうする? どこか予約しといた方がいい?」
「……あまり大げさにはしないでください。僕なんて、地味なもんですから」
「出た、旅人の“どうぞお気遣いなく”モード」
宮田は小さく笑いながら、コーヒーのプルタブを開けた。
「でもな、やっぱ寂しいんだよ、ちょっとだけ」
「“ちょっとだけ”なんですね」
「おう。すげぇちょっとだけな」
ふたりは笑った。静かに、ささやかに──けれど、それは確かに“別れの匂い”を帯びた笑いだった。
「東京、行くんだったよな。谷中ってとこだっけ?」
「はい。台東区と文京区の境目あたりです。昭和の雰囲気が残ってるって聞きました」
「へぇ……で、葬儀社?」
「明治葬儀社、というところに」
その名を聞いた宮田は、少し真顔になる。
「なんか、旅人っぽいな。派手じゃないけど、ちゃんとしてるところ」
「ありがとうございます」
「でも葬儀社って、やっぱ大変だろ? こっちと違って、毎日が“最期”だもんな」
旅人はしばらく黙り、窓の外を見た。ビルの向こう側には、まだ仮設足場が組まれたままの建物があった。ブルーシートが風にめくれ、かすかに音を立てていた。
「……震災のとき、何もできなかった自分が、ずっと残ってて」
「うん」
「誰かの“最後”に関わることで、せめて、ちゃんと終われる人が増えればいいなって思ったんです」
「そっか……」
宮田は頷き、缶コーヒーを持ち直した。
「けどな、旅人がいなくなるのは、やっぱ寂しいよ」
「……宮田くんが、そう言ってくれるとは思いませんでした」
「おい、どんな評価だよそれ」
「いや、なんか、軽くてあったかい言葉を選んでくれる人だなと思ってたから」
「おー……それ、褒めてんのか?」
「もちろん、です」
宮田はちょっとだけ照れたように笑い、残りのサンドイッチに手を伸ばした。
「夜行バス、何時?」
「三宮駅前、23時45分発です」
「じゃあ、駅まで送ってやるか。俺、暇だから」
「いえ、そこまでは──」
「いいの。見送らせろ。先に行くヤツの背中って、けっこう見ておきたいもんなんだよ」
旅人は何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
その沈黙の中に、言葉よりも濃い感謝の色がにじんでいた。
そしてまた、ふたりの間には、なんでもない話が流れ始めた。
テレビ番組の話。新しくできたラーメン屋の話。上司の口癖のモノマネ。
──そのどれもが、今日限りになる。
けれど、だからこそ、何気ないこの朝が特別に感じられた。
旅人はそっと、ペン立ての中に目をやった。毎朝整えてきたボールペンの列。その整然と並ぶ姿が、なぜか少し、愛おしかった。
