別れはいつも、音を立てない。
それは風がカーテンを揺らすように、誰にも気づかれぬまま、少しずつ日常の景色を変えていく。
陽が最も高くなる午後一時過ぎ。販売営業部のフロアは冷房の唸る音と、キーボードを叩く微かな音で満ちていた。けれどそのざわめきの中に、旅人の心はどこかうわの空だった。
今、目の前にある書類の束。顧客名、物件番号、契約日の印字。──今日で、これらと関わる日々が終わると思うと、紙の手触りさえも、妙に実感をともなって指に残った。
ー静けさの奥にある引き潮ー
午前十一時を少し過ぎた頃、旅人は三階の販売営業部に戻った。
書類の山の隙間に、今しがた受け取った封筒をそっと忍ばせる。まるでその存在が目立ちすぎないようにと願うように。
すると背後から、宮田信一郎の声が届いた。
「おーい、旅人。さっき社長に呼ばれてたやろ? なんやったん?」
「……紹介状、もらいました」
「ああ、やっぱり……」
宮田は椅子にもたれながら、口元を片手で覆った。その仕草には、からかいでも驚きでもなく、微かに滲む寂しさがあった。
「旅人ってさ、なんか“抜ける”って感じせえへんのよな。静かすぎて。朝来て、掃除して、電話とって、資料作って……で、いつの間にか営業成績も上げてる。なんか、空気みたいやった」
「それ、褒めてます?」
「もちろんやん」
旅人は小さく笑った。宮田の言葉は、いつも回り道をしながら、核心をついてくる。
昼休みになり、ふたりは裏手のコンビニへ向かった。
太陽が真上にあり、歩道には車の影がくっきりと映っていた。
「なあ、旅人」
「はい」
「次のとこでも、“空気”でいくん?」
旅人は少しだけ歩みを緩めた。
「……たぶん、最初はそうなります。でも、いつか……誰かに必要とされる空気になれたらいいな、って」
「うわ、ええこと言うなあ。なんやそれ、小説家か」
ふたりの笑い声が、夏の陽に溶けていった。
午後、旅人は一階の営業車の整備道具を片付け、長年使っていた社用のトヨタ・カローラを最後にもう一度だけ洗った。
フロントガラスの水滴を拭き取りながら、かつてこの車で訪れた街角や、雨の中の交渉、子どもに手を振られた信号待ちの記憶が、ひとつひとつ浮かんでは消えていく。
時計の針が午後三時を回るころ、彼は再び五階へと上がった。
誰もいない社長室。その隣の掃き出し窓を開けて、屋上へ出る。
空は高く、白い雲が音もなく流れていた。
旅人は屋上の端に立ち、手すりに手をかけて街を見下ろした。
眼下には、無数の暮らしが音を立てて流れている。
どこか遠くで、鉄を打つ音が響く。
信号が変わるたびに、車がエンジンを鳴らし、タイヤの擦れる音が重なり合う。
商店街の路地では、八百屋の店主がスピーカーで値下げを叫び、幼い子どもが転んで泣き出す声が、母親の声に追いかけられるように止んだ。
風に乗って、風鈴の高い音がふと流れてくる。ひとときの涼しさが頬をなでた。
陽射しを受けて、ガラス窓がきらきらと光っている。
交差点では、青信号が点滅し、ゆっくりと流れる人の波が、まるで生き物のように蠢いていた。
その一つひとつが、この街の“生”を形づくっているのだと、旅人は思った。
耳を澄ませば、幾重にも折り重なる音が聴こえる。
それらがまるでひとつの交響曲のように重なり合い、この街にしかない“時間のリズム”を奏でていた。
潮の香りが、ふと鼻先をかすめた。
ああ、この場所は確かに、神戸という港町だったのだ。
遠くには煙突が、さらにその先にはかすんだ六甲の稜線が浮かんでいた。
旅人は両手を胸の前で重ね、しばらく目を閉じた。
──ここで、五年間、生きた。
言葉にするよりも、風の中でその感情を染み込ませるほうが、自分には合っていた。
「……ありがとうございました」
誰にも届かないような声で、旅人は呟いた。
その言葉は、風に乗ってどこかへ消えていった。
彼はゆっくりと階段を降りた。
もう一度、会議室を覗き、給湯室のコップを洗い、最後に一階のエントランスに立った。
カウンターの奥では、新人の事務員が電話応対をしていた。
彼女の声が少し震えていたのを見て、旅人は小さく頷いた。
「がんばってくださいね」とだけ、心の中で伝えた。
そして扉を開け、外に出た。
陽射しはまだ強く、蝉の声がアスファルトの照り返しと混じっている。
旅人はポケットから黒革の手帳を取り出し、最後の1ページを開いた。
その頁だけが、今日という日に捧げられる場所だった。
【黒革の手帳より(1995年7月28日・金)】
この街で過ごした五年という時間が、何かを変えたのか、それとも守ったのかは、まだわからない。
ただ、誰にも気づかれずに掃除をする朝が、
たわいのない会話が、
屋上から眺めた、音に満ちたこの街の風景が──小生の背中に、ゆっくりと染みこんでいたのは確かである。
大きなことは何ひとつできなかったが、
小さな声に耳を澄ませる力を、ここで覚えた。それだけでも、十分だと思える日が、きっと来るだろう。
風の音。
誰かの笑い声。
カローラのエンジン音。
そして、「またな」と言ったあの人の声。
どれも、もう手の中にはないが、
小生の中では、いつまでも鳴り続けている。
