火葬場で名前すら覚えられない遺骨と向き合う日。旅人は、身寄りのない故人たちの書類に目を通すうち、職業欄に書かれた“ひとこと”に心を動かされる。名もなき人生の重みを受け止める章――。
― 火葬場で出会う名札のない人たち ―
灰色の空が低く垂れ込めた日だった。
東京・東部の火葬場。
朝からの細い雨がまだ残っていて、地面はじんわりと湿っていた。
「風野くん、今日のこの便、役所案件。ひとりで大丈夫か?」
上司からそう声をかけられたとき、旅人はただ頷いた。
遺体はすでに安置されており、式も弔問もない。
火葬台帳の書類には、“氏名不詳・推定70代男性”とだけ記されていた。
身元不明。所持品は小銭入れと古い名刺入れ。
住所は簡易宿泊所、病歴あり、保証人なし。
旅人は控室で、書類のコピーをめくった。
死亡診断書、搬送記録、行政とのやりとり。
そのなかに一枚だけ、かすれた文字の職業欄があった。
「元・製本工」
旅人の手が止まった。
製本工――
本の背を、糊で綴じる人。文字と紙を“まとめる”仕事。
言葉に直接は触れないが、誰かの言葉を“支える”存在。
旅人は、ふと頭を下げた。
誰に向けたものでもない、無言の感謝だった。
火葬炉の前に棺が静かに運ばれる。
花はない。遺影もない。
けれど、旅人は出棺の前に、控室から折り紙をひとつ持ってきた。
それは、通夜の灯籠流しのときに、美月が余った紙で作った小さな舟だった。
裏には、三好佳乃がふざけて書いた言葉が残っていた。
「よくがんばりました」
棺の上にそっと置かれたその舟は、まるで“誰かがここにいた”ことを伝える印のようだった。
炉の扉が閉まると、旅人はしばらく黙って佇んだ。
焼かれてゆくのは骨ではなく、“書かれなかった人生”そのものなのかもしれない――
そんな感覚があった。
ー製本工を知る男ー
火葬が終わった帰り道、旅人は搬送の報告を済ませるため、区の福祉課に立ち寄った。
窓口で書類を提出していると、ロビーの端に座る年配の男性が、ふと声をかけてきた。
「……もしかして、今日の火葬、あの今戸の人?」
「……はい。身寄りのない方で、職業欄に“製本工”と」
「……やっぱり、そうか。昔、同じ工場で働いてたんや。名前はな、三木浩司。寡黙な人やった」
旅人は驚き、男性の方へ一歩踏み出した。
「三木さん、どんな方でしたか?」
「……背が低うてな。よう製本台の上に乗って作業しとった。
しゃべらんけど、機械の音のリズムに合わせて、糊をすーっと引いていくのが上手かった。
“本は、誰かが読んだあとも、静かに待っとるもんや”って、そんなこと、たまにぽつりと言うとったな」
旅人は、胸の奥に何かがじんと滲むのを感じた。
今日送った“名もなき人”に、ようやく輪郭が与えられていく。
「亡くなったあとも、ちゃんと丁寧に送りました」
その言葉に、男は小さく目を伏せた。
「……ありがとう。あの人、独りやったけど、本を閉じるみたいに、静かに暮らしたかったんやと思う。
最後に、誰かが“とじてくれた”って聞いて、ちょっと安心したわ」
旅人は黙って頷いた。
その夜、旅人は黒革の手帳にこう記した。
1995年11月10日、火葬場。
小生、名もなき人の火葬に立ち会う。
書類に残された職業――“製本工”。
誰かの言葉を束ね、形にしていた人。
それを、誰も知らないまま送るのは、静かな痛みである。思うに、名とは呼ぶためのものではなく、“覚えているため”にあるのかもしれぬ。
今日、小さな舟を棺に入れた。
それは、こちら側から出す言葉の代わりだった。
「よくがんばりました」――たとえ誰にも届かなくても、何かを渡したいという気持ちが残った。……ふと思った。
もし自分が死ぬとき、こうして名もなく送られるような人生だったとして、
誰か一人でも「よくがんばった」と舟を置いてくれたら――それで、救われるのかもしれない。そう思った瞬間、胸の奥に、ぽつんと灯りがともった。
自分が“見送る側”にいるのは、もしかすると、誰よりも“見送られたかった”からなのかもしれない。…追記。
火葬場で送った“元製本工”の方は、三木浩司さんという名だった。
かつて同じ工場で働いた人が、“あの人は本を閉じるように暮らしていた”と語った。言葉にならなかった人生も、誰かが覚えていれば、確かに“あった”と言える。
名前とは、思い出す人の中で呼びかけ直されるものだ。
今日、小生ははじめて“骨に名を呼ぶ声”を聞いた気がする。
机に置かれた白紙の封筒に、旅人はそっとペンでこう書き加えた。
「元・製本工の三木浩司様へ」
それは、誰にも届かない手紙だった。
だが、その宛名はたしかに、灯りのように浮かんでいた。
