通夜の料理を準備する現場で、三世代の家族が交わすささやかな会話。その場にある“味”と“記憶”が、旅人に「生と死の間にある日常の重さ」を気づかせていく――。
― 家族を見送る場に残る味と記憶 ―
その日の夕方、空はやわらかな灰色をしていた。
雲は低く垂れ込み、冷たい風が式場の暖簾を静かに揺らしていた。
「旅人さん、通夜の料理、搬入きました」
三好佳乃が控え室から声をかける。
旅人は黒の上着を脱いで、受け渡し用のカートを押しながら式場の裏口へと向かった。
届いたのは、昔ながらの仕出し屋からの料理だった。
ちらし寿司、筑前煮、煮しめ、なます。
それに、やさしい甘さの玉子焼きが、木箱にぎっしりと詰められていた。
「……ええ匂いやな。葬式やのに、腹減ってまう」
川口茉莉がぼそっと言い、佳乃が「それ、言うたらあかんやつです」と苦笑する。
旅人もつられて小さく笑った。
その通夜は、古くから商店を営んでいた故人のためのものだった。
集まったのは、子、孫、曾孫まで含めた三世代の家族たち。
開式の前、控え室の奥で旅人は偶然、小さなやり取りを耳にした。
「なあ、これ……おばあちゃんがよう作ってくれたやつやん」
「そうそう、あの甘い卵焼き。毎週土曜のお昼に出てた」
「でも、ちょっと味、違うなあ……」
「……せやけど、においが一緒や。おばあちゃんの台所、こんな匂いやった」
その声は、三世代の記憶をつなぐ細い糸のようだった。
味や匂いが、言葉よりも深く、故人と過ごした“生活の断片”を蘇らせていた。
式が終わり、家族が料理を囲んでいるあいだ、旅人は祭壇の花を整えていた。
ふと、喪主である長男が控え室から出てきて、旅人に一礼した。
「……ありがとうございました。今日は、ほんまに“通夜”って感じがして」
「通夜、ですか?」
「はい。明日があるって思える夜になった気がして。
母が元気なとき、よう言うてました。“お葬式ってな、最後のごはんを一緒に食べる日でもある”って。
“味のある思い出は、思い出の味になる”って、わけわからんことも言うてましたけど」
「……いい言葉やと思います」
式場を出た夜、旅人はタクシーを待ちながら、ふと夜風を吸い込んだ。
どこかから、出汁の香りが微かに漂ってきた気がした。
その夜、黒革の手帳にはこう記された。
1995年11月2日、通夜担当。
小生、“通夜の料理”に祈りのかたちを見る。
香り、味、音――それらは生きていた人の“生活”の記録。
人は、亡き人と“食卓”を囲むことで、その人をもう一度迎える。
弔いとは、死を見送るのではなく、生の気配をもう一度呼び寄せる時間かもしれぬ。今日の通夜で、ある孫が玉子焼きの匂いから祖母の声を思い出した。
記憶とは、言葉ではなく感覚に宿る。
それは、祈りというより、帰り道の匂いに似ている。……ふと、自分は誰の記憶に、そういう“匂い”を残せるのだろうかと考えた。
美月が時折見せる、誰かを見送るときのまなざし――
それを思い出すと、胸が少しざわつく。彼女は“何か”を渡している。言葉ではなく、手のぬくもりのようなものを。
自分にも、そういう祈りが持てるだろうか。
いや、持ちたいと思っているのかもしれない。それが、まだ灯りになっていない、
けれど確かに手の中であたたまろうとしている“何か”のように思えた。
夜の街に、箸の音と、笑い声がかすかに混じっていた。
葬儀の夜は静かだったが、そこにはあたたかな“湯気”が確かに立ちのぼっていた。
