言葉より先に風が吹く。声をかけられる前に、相手の背中が何かを語りかけてくる。
旅人が社長に呼ばれたと聞いたとき、彼の中にはひとつの予感があった。 それは挨拶でもなく、送別でもなく──たぶん、“確認”だった。
過去と未来をつなぐ中間地点。五階の屋上には、言葉にならないものが、風に溶けるようにして漂っていた。
午前十時、三階のデスクで書類に目を通していた旅人の内線が鳴った。受話器の向こうが事務の宮本さんが短く言う。
「旅人くん、社長が屋上に来てって」
「……はい、ありがとうございます」
その短いやり取りの中に、どこか察するものがあった。
旅人は背筋を伸ばして立ち上がり、いつもの癖で一度だけスラックスの裾を整えてから、静かに階段を上っていった。
五階の社長室。ノックをしても応答はない。けれど、隣の掃き出し窓が少し開いていて、そこから屋上へと出られるようになっていた。
扉を開けた瞬間、風が音もなく頬を撫でた。陽射しが強く、コンクリートの照り返しが目に刺さる。
「来たか」
赤田慎司(55)は、ビルの端に立ち、手すりに両肘を乗せながら空を見上げていた。
「呼び出してすまんかったな。今、社長室暑くてな」
「いえ。……いい天気ですね」
「ええ天気や」
しばらくふたりの間に沈黙が流れた。けれどそれは、気まずさではなく、確認し合うような静けさだった。
赤田はジャケットを脱いで椅子の背にかけ、ポケットから封筒を取り出した。生成りの厚手の紙に、筆ペンで記された宛名──『明治葬儀社 鈴木明治 様』
「紹介状や。お前に渡しておきたくてな」
旅人は封筒を両手で受け取った。ずしりと重い。それは紙の重さではない。
「……ありがとうございます」
「ほんまはな、まだ引き留めたかったんや。けど、お前が震災のあとで“変わってしもた”のを、俺は知ってる」
旅人は顔を上げた。
「変わった、って言われたの……、初めてです」
「そうか? 俺から見たら、あのときから目の奥が違うようになった。売上とか結果とか、そういうもんより、誰かの心の中に触れたがってる目やった」
旅人は封筒を胸の前で握ったまま、風の音に耳を澄ませた。
「……正直、不安ばかりです。うまくやれるかもわかりません。でも、行かないと、後悔する気がして」
「それでええ。迷わんことが正しいんちゃう。迷いながら選ぶ道の方が、人は丁寧に歩く」
赤田の言葉は、いつもゆっくりだった。
「お前には“語らへん力”がある。声を張らんでも、人に届く言葉を持ってる。これはな、持とうと思って持てるもんやない」
旅人の胸に、何かが静かに染み込んでいく。
「俺も昔、勝手に背負って、勝手に傷ついて、気づいたら独りやった。でもな、その時間があったから、今こうして会社や人に向き合えてるんやと思う」
旅人は、屋上の端に並んで立ち、遠くを見た。
六甲の山並み。そのふもとに広がる神戸の街。
「あのとき、街は壊れました。でも、人と人が支え合う姿は壊れへんかった。そのことが、僕の中にずっと残ってて……」
「それでええ。理由は十分や」
風が二人の間を抜けていった。封筒が揺れ、旅人のシャツの裾がなびく。
「向こうでも、あんまり“頑張りすぎるな”。お前のええとこは、肩に力入れんでも沁みるとこや」
「……はい」
「あとひとつ。谷中いうたら、あそこやろ。古い寺のある町や」
「ええ。今度の職場も、そういう地域に根ざした葬儀屋で」
「よう似合ってる。向こう行っても、朝は掃除しとるんちゃうか」
旅人は笑った。
「たぶん、そうなると思います」
「そうや。ほな、何も変わらん。やることが変わるだけで、心はちゃんとつながっとる」
その言葉に、旅人ははじめて、ほんの少しだけ涙の気配を覚えた。
けれど、それはこぼれなかった。
代わりに深く頭を下げ、まっすぐに目を合わせて言った。
「ありがとうございました。五年間、本当に、ありがとうございました」
「おう。おつかれさん。──行ってこい」
屋上には風が吹いていた。
すべての言葉が終わってから、旅人はもう一度だけ空を見上げた。
真っ白な夏雲が、ゆっくりと形を変えていた。 【第四節:去り際と記憶】 陽が最も高くなる午後一時過ぎ。販売営業部のフロアは冷房の唸る音と、キーボードを叩く微かな音で満ちていた。けれどそのざわめきの中に、旅人の心はどこかうわの空だった。
今、目の前にある書類の束。顧客名、物件番号、契約日の印字。──あと一日で、これらと関わる日々が終わると思うと、紙の手触りさえも、妙に実感をともなって指に残った。
ー静かなる日常の終章ー
午後、旅人は電話対応の合間にふと立ち上がり、廊下の窓から外を見た。三宮駅前の交差点、復旧中のビルの上階には足場が組まれ、ブルーシートが風にたなびいている。
思えばこの五年間、あらゆるものが「戻る途中」だった。街も、人も、自分自身も。
「風野くん、これ今日中に頼むね」
主任の声に、旅人ははっとして振り返る。
「はい、すみません」
渡された資料の束を受け取り、いつものように「急ぎます」とだけ言った。彼女はそれ以上なにも言わず、少し微笑んで去っていった。
目の前の仕事に集中しようとするも、指先の動きにどこかぎこちなさが残る。
昼下がりの事務所に、テレビの音が微かに聞こえてきた。地下鉄サリン事件の特集が再放送されていた。防護服に身を包んだ隊員たちの映像が、音声のないまま淡々と流れている。
あの日。あの震災。そして、あの事件。
“人の命が、こんなにも突然に、静かに終わるのか”
そう思った記憶が、じんわりと胸の奥に戻ってくる。
旅人は引き出しから黒革の手帳を取り出した。 この日々を、記録しておきたかった。
だがその前に、窓際へ足を運ぶ。
窓の外では、ひときわ大きな蝉の声がしていた。
耳をすませば、その声の下に、誰かの笑い声やクラクションが溶けていく。静けさの中の騒がしさ。騒がしさの中の静けさ。──それが、この神戸の、今日の午後だった。
旅人は、ふと、手帳を持ったまま屋上へ上がる。 五階の非常階段をゆっくりと踏みしめ、無言のまま扉を開いた。
先ほどまで社長といた空間。今は風だけが、そこにいた。
旅人は屋上の端に立ち、遠くの港を眺めた。船の動き、クレーンの影、微かに鳴る汽笛。
──この街で、自分は何を残せたのだろう。
【黒革の手帳:1995年7月28日(金)】 ──退職前日。
午前七時三十分。今日も変わらず掃除から始めた。
営業車の窓に跳ねた水滴が、朝陽を受けて七色に光っていた。
社内に最初に入るあの静けさが、好きだった。空気がまだ誰の言葉も含んでいない。机を整えながら、五年前の自分を思い出した。
何も分からず、とにかく“居場所”が欲しくて必死だった。掃除は、誰かに褒められるためじゃない。
何も語らない分、自分の手のひらが記憶になってくれる気がしたからだ。午前八時すぎ、宮田くんが階段を上ってきた。
相変わらず音楽と缶コーヒーを片手に、あの軽さで。
けど、別れを前にした彼の言葉は、少し重かった。
それが妙に、嬉しかった。“ちゃんと終わらせる仕事”──
そう言ってもらえたのは、正直、救いだった。黙って続けることしかできなかったけど、
それでも、誰かに伝わる何かがあったなら、
この五年は、無駄じゃなかったと思える。社長から預かった紹介状の重み。
……神戸のこの空の下、心に残るものばかりや。明日、出発する。
小生、風野旅人
