始まりとは、決して派手なものではない。静けさのなかに身を置き、誰に見られるわけでもない行為を、淡々と繰り返すこと。その中で、人は少しずつ、自分の輪郭を確かめていく。
旅人にとっての“始まり”は、掃除だった。入社初日から欠かさず行ってきた一連の所作は、いつしか身体の一部になり、誰にも知られないところで彼を守り続けていた。
ー手のひらに刻まれた時間ー
そんな日々が終わる朝──その掃除には、無意識のうちに別れの祈りが宿っていた。
午前七時三十分。神戸の街はまだ、半ばまどろんでいた。三宮の東側、小さな通りに面した五階建ての社屋の前に、風野旅人(24)の姿があった。濃紺のワイシャツにベージュのチノパン。どこか背筋の通った所作で、ゆっくりと玄関の鍵を回す。
錠が外れる金属音とともに、冷えた空気が社内からふわりと流れ出た。照明は点けず、旅人はそのままエントランスの掃除道具ロッカーへ向かう。そこに置かれたモップと雑巾、消毒用アルコールは、彼にとって道具というより“習慣”の延長だった。
旅人は無言のまま、床を拭きはじめた。タイルの目地にたまった砂ぼこりをこすり取り、ガラス扉の下を丁寧に撫でる。誰も見ていないことは分かっていたが、そのことがかえって気持ちを引き締めさせた。
「……今日で最後やな」
ふと漏らした独り言に、答える者はいない。けれどその声は、まるで社屋の壁がそっと耳を傾けているかのように、静かに空間に吸い込まれていった。
エントランスの掃除を終えると、旅人は社屋の外へ出た。まだ陽射しの斜めな朝。アスファルトに落ちる木陰が、ゆらゆらと揺れている。
駐車スペースの奥に並ぶ営業車──白いライトバンの一台一台を順に開け、掃除を始めた。
運転席のシートを手で撫で、フロアマットを外して砂を払う。ダッシュボードに手を入れ、社内資料の整頓をする。ミラーの角度を直し、灰皿の小さな灰も拭き取った。
最後にバケツの水を手に取り、フロントガラスにそっと撒く。水しぶきが朝陽に照らされ、虹色に輝いた。
その光景に旅人は、わずかに目を細めた。
──変わらないものはない。でも、変わらず続けてきたことは、確かに自分を支えてくれていた。
旅人はふと社屋を見上げた。五階建ての建物。無数の時間を過ごしたその箱に、何かを託すように目を閉じた。
掃除を終えた彼は、階段を使って三階の営業部へと向かった。
エレベーターは使わない。鉄製の手すりに触れる手が、少しだけ汗ばんでいる。階段の踊り場には、小さな観葉植物が置かれていた。水は昨日の夕方にやったばかりだ。
三階のフロアに入り、デスクの前に立つ。机の角に触れ、その感触をゆっくりと確かめるようになぞる。
引き出しを開け、書類を整理し、ペンの位置を整える。
ペン立ての底にたまった埃を指先でかき出しながら、旅人は心の奥で問いかけていた。
──自分は、この机で何を得て、何を手放したんやろ。
その答えは出なかった。
けれど、掃除のように、少しずつ形の見えないものを整えていく──そんな五年間だった。
誰にも見えない仕事の端々に、誰かの未来がかすかに宿る。
そんな思いを胸に抱いたまま、旅人は静かにデスクに腰を下ろした。
蝉の声が、午前の社屋に滲むように響いていた。
