ある日、美月が旅人の前で涙をこぼす。いつも毅然としていた彼女が、初めて言葉にできない感情を溢れさせた日。旅人はその涙に“言葉ではなく、そばにいること”で応えようとする――。
― 心の揺れを見せた彼女と旅人 ―
その日、空は晴れていた。
けれど、空気は妙に重たかった。
暑さでも湿度でもない、“なにか”がゆっくりと降りてくるような朝だった。
明治葬儀社の事務所。
旅人は、前日行われた葬儀の報告書をまとめていた。
静かなキーボードの音だけが部屋に響く。
隣の席では、美月が顎を手に乗せて、資料をぼんやり見ていた。
普段なら、淡々と指示を飛ばす彼女が、今日はひとつも言葉を発していなかった。
「美月さん、大丈夫ですか?」
問いかけると、一拍おいて、美月は小さく頷いた。
けれど、目の奥に何かがにじんでいるのがわかった。
「……ちょっと、外、出よか」
旅人の一言に、美月は頷き、ふたりは社屋裏の小さな縁側に出た。
秋の陽射しが落ちていた。
木々の間から風が吹き抜ける。
ふたりは無言のまま、縁側に腰を下ろした。
しばらくして、美月がぽつりと言った。
「今日、遺族の方に言われてん。“あなたたちの仕事は、死ばっかり見て、よう平気やね”って」
旅人は何も返さなかった。
ただ、風の音を聞きながら、美月の言葉の続きを待った。
「……わたし、ずっと“平気なふり”してたんやろな。仕事やから。跡継ぎやから。
でも、ほんまは、なんでこんなに人がいなくなるんか、わからんくなるときがある」
その言葉の直後だった。
美月の肩が、小さく震えた。
目元を隠すように顔を伏せ、音もなく涙がこぼれた。
旅人は、それを見て、なにも言えなかった。
言っていい言葉が、なかった。
ただ、美月のすぐ隣に腰をかけ、目線を合わせることすらせず、同じ方向を見た。
「……わたし、泣いたらあかんって思ってた。
立場あるし、感情見せたら“弱い”って思われるやんか」
「……弱さって、見せたときに、ちゃんと残るんやと思います。
それ、ええことやと思います」
旅人のその声に、美月はゆっくり顔を上げた。
涙の跡が残っていたが、どこか、ほんの少し表情がほどけていた。
その後、ふたりは数分だけ、ただ風の音を聞いていた。
会話もなく、沈黙もまた“対話”だった。
事務所に戻る前、美月は小さく呟いた。
「……ありがとう。なんも言わんといてくれて、助かったわ」
旅人は頷くだけだった。
その夜、手帳にはこう綴られた。
1995年10月3日。
小生、美月の涙を見る。
人は、壊れずに立つために、時に崩れる必要がある。
弱さを“守る”のではなく、ただ“そばにいる”こと。
言葉がない時間が、感情の居場所になる。
風が吹く縁側に、沈黙という強さがあった。
その夜の風は、ほんのすこし、やさしかった。
