――日が傾き、夕方の葬儀社は昼の喧騒を脱ぎ捨て、静かな気配を帯びる。
谷中の街路に蝉の声が遠く響き、午後の光が事務所の白壁を淡く染めていた。
風野旅人は、その夕暮れの空気の中で初めて「夜を守る」責務を託されようとしていた。
1995年8月6日 午後4時半。
東京の空はなお熱気を含み、遠くから盆提灯市の呼び声がかすかに届いていた。
旅人は事務所の机で書類をまとめながら、窓の外の赤くなり始めた空を眺めた。
蝉の声が、熱を帯びた空気の中でどこか遠く感じられた。
神田が事務机の角に寄り、煙草をくわえたまま小さく口を開いた。
「……風野、そろそろ当直のことも覚えとけ。」
旅人は手を止め、神田を見た。
「当直……ですか?」
「おう。夜の葬儀社は、昼間とちゃう。遺族の心も、夜は弱る。夜中に呼ばれる搬送は、忘れられんことが多い。」
神田は煙を吐き、記憶をたどるように目を細めた。
「昔な。夜中の二時すぎに病院から呼ばれたことがあった。ご家族がさ、ずっと手ぇ握っとったんや。葬儀屋の俺が来たときに、やっと泣き崩れはった。」
その声の奥に、静かだが深いものがあった。
「夜の館内、夜の遺族……そんときのお前の態度が、次の日の式の空気を決めるんや。」
旅人の心に、熱いものがゆっくりと広がった。
(夜……葬儀社の夜を、俺が守る……。)
神田は火を消し、背を伸ばした。
「控室での過ごし方や備えは、美月さんから聞け。あの人の言うことはちゃんと胸に入れとけ。」
美月は奥から進行表を片手に現れた。
「神田さんから聞きました。当直の件、ですね。」
「はい……お願いします。」旅人は少し声を強めて答えた。
美月は静かにうなずき、控室の鍵を手にした。
「夜の葬儀社は、昼とは違う静けさがあります。控室からの動線、緊急のときの車の出し方、全部今日見ておいてください。」
控室の畳の香り、冷房の微かな音、窓の外に見える夕空。
美月の声はその空気に溶けるように響いた。
「夜の間、あなたがここを守ることになります。搬送の電話は、予告もなく来ます。その一件一件が、ご遺族にとって一生忘れられないものになります。」
旅人はその言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
「はい……しっかり、やります。」
美月はわずかに微笑んだ。その表情には、厳しさと温かさが同居していた。
【黒革の手帳 1995年8月6日】
夕暮れの光に包まれた社屋。神田さんの語った夜の務め、美月さんの静かな声。
控室の畳の匂い、冷房の音、夕空の色。
夜を守ること。その重さを感じ始めた。
商店街に流れていたLOVE LOVE LOVEの旋律が胸に残る。
小生、風野旅人。
窓の外では、風鈴が小さく鳴り、夜の静けさが谷中の街に降り始めていた。
