――死を見送るということは、昨日と同じ朝を迎えながら、心のどこかが変わってしまった自分に気づくことだった。
蝉の声、白檀の残り香、谷中の街路に流れる朝の風。そのすべてが、風野旅人にとって新しい意味を持ちはじめていた。
1995年8月2日 午前7時45分。東京・谷中の路地は蝉時雨で満たされていた。
革靴の音が石畳に吸い込まれていくたび、昨日までとは違う鼓動が旅人の胸の奥で響いた。
白い社屋を見上げる。昨日と変わらないはずのその姿が、少しだけ違って見えた。朝日が壁面に滲むような光を落とし、窓枠の影が地面に長く伸びている。
商店街のスピーカーからは、Mr.Children「シーソーゲーム〜勇敢な恋の歌〜」のイントロが微かに流れ、PHSを腰に下げた若者が駅へ急ぐ姿が視界を横切った。
新聞の掲示板には昨夜の巨人対阪神戦の結果が貼り出され、書店の軒先には「パソコン特集」の雑誌が山積みになっていた。
「おはようさん。」
社屋の前で神田が煙草をくわえ、目で挨拶を送った。
「おはようございます。」旅人は声を返すと、神田の横に立った。煙草の先がわずかに赤く光る。
しばしの沈黙ののち、神田が口を開いた。
「昨日の夜、寝れたか?」
「……あまり、寝つけませんでした。」
「まぁ、最初はそうや。死んだ人の顔が浮かぶやろ。」
旅人は頷いた。
「浮かびました。……白布の下の顔も、遺族の方の目も。」
神田は煙草を地面に落とし、足で消した。
「それ、忘れんようにな。なまじ慣れると、死に顔がただの“作業”になってしまう。」
その声には、静かで重い真実のような響きがあった。
1階の事務室に入ると杉原佳代が笑った。「二日目、どう? 少し顔が落ち着いたわね。」
「おはようございます。」旅人は小さく頭を下げた。村井は軽く目礼を送り、ファックスの前に立っていた。
控室で制服に袖を通す。鏡に映る自分の顔は、やはりまだどこか硬いままだ。
式場では美月が進行台本に目を落とし、窓際に立っていた。
「おはようございます。」旅人の声に、美月は微笑み、目線を合わせた。
「おはようございます、風野さん。今日もよろしくお願いします。」
進行台本を閉じ、美月はそっと問うた。
「昨日の搬送、どうでしたか?」
「……ただ、黙っているしかなかったです。何もできなかった。」
「それでいいんです。」美月の声は、蝉の声に混じりながらも不思議と届いた。
「言葉よりも、ただ“そこにいる”ことが、力になるときがあります。」
北原が式場に姿を現した。35歳、柔らかい笑顔と落ち着いた物腰。
「風野くん、供花の配置と遺影の角度、俺と一緒に確認しよう。」
「はい。」
北原は旅人の肩に手を置き、少しだけ声を落とした。
「昨日、初めてやったんだろ。どうだった?」
旅人は小さく答えた。「……怖かったです。怖いっていうのが正しいのか分からないけど。」
「その感覚、大事にしたほうがいい。死ってのは、どこまでいっても“人の顔”だからな。」
式場で供花を整える北原の手の動きは流れるようで、無駄がなかった。
「花は、故人に向けて真っ直ぐ。遺族の視線の延長線上に置くんだ。ちょっとしたことだけど、心が救われることがある。」
旅人は震える手で白菊の向きを直した。
北原が笑った。「そう、そうやって丁寧にやることだ。それが君の誠意だ。」
出棺前の打合せが終わるころ、旅人は控室に戻り、黒革の手帳をそっと開いた。
【黒革の手帳 1995年8月2日】
蝉の声と白い社屋、神田さんの声、煙草の火。
北原さんの手の動き、花の向き。
美月さんの声、「言葉よりも、いることが力になる」と言ってくれた言葉。
商店街に流れた「シーソーゲーム」。
昨日と同じ朝、でも胸の奥が確かに変わった気がする。
小生、風野旅人。
🌿 結び
外の街では、再びスピーカーから「シーソーゲーム」のサビが流れ、谷中の夏の空気は熱と音で満ちていた。旅人はそっと社屋を見上げ、その白壁にわずかに滲む汗の感触を、心に刻んだ。
