――葬儀社の館内は、静けさを宿す場所だった。
けれどその静けさは、ただの無音ではなく、送られた人々の記憶が刻まれた余韻のように感じられた。
風野旅人は、その空気の中を初めてゆっくりと歩き出した。
1995年8月4日、午後1時。東京の空は白く霞み、熱気が路面から立ち上っていた。
旅人は明治葬儀社の引き戸を開けた瞬間、冷房の冷気と白檀の香りに包まれ、ほっとした自分を感じた。
「……この静けさに、俺は何を見つければいいんだろう。」
心の奥で、そんな問いが小さく響いていた。
神田が帳簿から目を上げ、「お疲れさん」と言う。
杉原の冷たいお茶の一口が、熱を帯びた身体に沁みた。
旅人は「ありがとうございます」と呟き、ほんの一瞬、自分の声が館内に小さく響くのを聞いた。
美月の姿が奥から現れた。
「風野さん、午後は館内を案内します。……今日は、場所の意味を、空気の意味を覚えてください。」
その言葉に、旅人はうなずきながらも胸の奥で緊張を強くした。
「ただ歩くだけじゃない。感じ取れ、自分。」
館内の歩み
1階の霊安室の前で、美月はふと立ち止まった。
「ここは“保管場所”じゃありません。最後まで、家族にとっては……。」
言葉を継がぬ美月の声の余韻に、旅人は安置台の上に眠る亡骸の面影を重ねた。
「ここに在る者は、ただの身体じゃない。昨日まで生きてた、その証なんだ……。」
2階の大式場では、北原の低い声が旅人の耳に残った。
「主役は故人だ。式場は舞台。それを忘れるな。」
旅人は心の中で繰り返した。
「主役は……故人。俺たちは支える影だ……。」
3階。神田がふと立ち止まり、旅人に目をやった。
「感じるか、この空気。」
旅人は静かに目を閉じ、呼吸を深くした。
「冷房の音、白檀の匂い、誰かがここを歩いた微かな床の音……全部、流れてる。」
4階の控室では、窓の外に瓦屋根の連なりと蝉の声が見えた。
「……この静けさも、谷中の音の一部なんだ。」
旅人の心は、不思議な安堵に包まれた。
5階。廊下の写真の中の若き鈴木明治の視線に、旅人は釘付けになった。
「……この人も、最初は俺と同じだったんだろうか。何を感じ、何に迷ったんだろう。」
黒革の手帳 1995年8月4日
午後の白い社屋。館内に満ちる白檀の香り、畳の匂い、冷房の音。
神田さんの言葉「空気を感じろ」。北原さんの「主役は故人」。
美月さんのまなざし、その声。廊下の写真の若き社長の目の奥の光。
歩いたすべてが、俺に問いかけてくる。「お前はこの場に立てるのか」と。
商店街に流れたLOVE LOVE LOVEが、今も心に染みている。
小生、風野旅人。
旅人は外に出たとき、夕暮れの光の中で白い社屋が少しだけ金色に輝くのを見た。
「明日も、またここを歩く。」
その決意が、静かに胸の中に芽生えた瞬間だった。
