――送るということは、故人の人生の重みをそっと引き継ぐこと。蝉の声が騒がしい夏の朝にも、その静かな約束は変わらない。風野旅人は、三日目の朝、自らの手でその重みを感じ取ることになる。
三日目の朝は、不思議と心のどこかに静けさを感じさせた。蝉の声は相変わらず激しく、谷中の石畳は夜露のあとを残していた。昨日と同じ朝のはずが、風野旅人にとっては少しだけ、自分の足音がこの町に馴染んでいくような感覚があった。
東京・谷中。白い社屋の外壁に朝日が差し込み、壁面のわずかな凹凸が金色の陰影を帯びていた。商店街のスピーカーからは、DREAMS COME TRUEの「LOVE LOVE LOVE」が流れていた。
社屋の前では神田が煙草をくわえ、目で「おはよう」と語った。旅人も「おはようございます」と返し、昨日より自然に微笑めた気がした。
打合せの後、神田とともに向かった谷中清風苑は、赤い瓦屋根とヒマワリ、風鈴が夏の光に包まれた穏やかな場所だった。
玄関で園田施設長が深く頭を下げ、介護主任の若林が静かに先導した。
故人の部屋には、白いシーツに包まれた遺体が眠るように横たわっていた。窓からの風がシーツの端をわずかに揺らす。
神田は片膝をつき、肩の下に手を差し入れた。「いいか、旅人。ゆっくりでええ。相手は生きてたときと同じ重みがある。それを忘れるな。」
旅人はブレーキの確認をし、手のひらの汗を感じながら「はい」と応えた。二人は息を合わせ、シーツの端を持ち上げた。神田の静かな手の動きに旅人も歩調を合わせ、ゆっくりと故人をストレッチャーへと移した。
ストレッチャーがわずかに揺れ、静けさが戻ると、神田が「……ええ動きやった」と小さく言った。
職員たちが玄関に並び、深く頭を下げる中、車が出発した。旅人は胸の奥で静かな誇りと、緊張の余韻を噛みしめた。
【黒革の手帳 1995年8月3日】
谷中清風苑の赤い屋根、ヒマワリ、風鈴の音。神田さんの言葉「生きてたときと同じ重み」。職員の見送りの姿。商店街に流れたLOVE LOVE LOVEが耳に残っている。小生、風野旅人。
